
相馬藩の境にまつわる話
浜通りの歴史的風土は、夜ノ森を境にして異なる。「夜ノ森」の地名の由来は、岩城氏と相馬氏が領有権を争って「余(=我)の森」を主張
し、その境界線となったことに由来すると言われている
伊達と相馬の境のさくら、花は相馬に実は伊達〜に
行司滝−元禄時代、相馬藩と三春藩が領境をめぐって争った際、双方の役人が行司(話し合い)をした場所としてその名が付いたと言われる。
標葉郡と楢葉郡の境界、とりわけ海岸地域は、十五世紀末以来、相馬・岩城両氏が争奪を繰り返し、元亀元年(1570年)岩城領に帰した際にも、“おら浜だ”“おらが浜だ”と争った。のち元禄十三年(1700年)、相馬中村藩と磐城平藩の協定により、北を小良浜(大熊町)、南を小良が浜(富岡町)として境界が決定された


境界は自然的境界と政治的境界がある。自然的境界は山とか川とかにさえぎられる、自然が要害となり敵をはばむ。外国では川が大きいから川が境界になりやすい、ライン川がゲルマン民族とラテン民族を分ける川だった。riverはライバルであり川を挟んで敵対して競争していたのである。日本では山が多いから山が自然の境界になる。境は坂を越えるところになる。封建時代は藩が一つの国だから境界が大事になる。境界を死守するために戦った。相馬藩でも最初小高に城があったが中村に今の相馬に移ったのはまさに新地方面から伊達が攻めてくるからであった。そこに山がなかったから城を築き守る必要があったのだ。その他相馬藩との境界になっているのは夜(余)の森である。あの辺は未開の森があり境界となっていた。おらが浜(小良ケ浜)でも境界争いの話が残ったのである。境界争いにまつわる話が多いのはそれだけ境界が大事だったからである。それから藩の内部でも境界が多いのである。堺田とか境畑は藩だけではない、藩の内部にもある。それは入会の山だとか江戸時代は狭い領域で人々が暮らしていたからである。入会の山だと制限された村人しか入れない。そこが生活の根拠となるからまた境が大事になるのだ。
「赤穂市史」によると、入会権をめぐる尾崎村と坂越村の山境争論は1695年(元禄8)に勃発。坂越村が赤穂藩に吟味願いを出し、1809年(文化6)の和解まで1世紀以上にわたって続いた。http://www.ako-minpo.jp/ktai/detail.cgi?no=842
山論
http://www.oklab.ed.jp/zemanjyo/furusato/4-4-2.htm
燃料とか秣(まぐさ)とか木材でも山は今とは違い貴重な資源を供給する場所だった。
境目付-横境目付とかあるのは境目付は重要な役職だった。横境目付とは境目付を横から監視する役目だった。不正があるとまずいからそうなった。高玉氏がその役についている。これと飯館村の山中郷の野馬追いの旗印で書いた。玉野の境目付でありそこに子孫が残っている。高玉氏の姓の人がいたからだ。飯館村の臼石から二枚橋から川俣にゆくのにはまた山を越えねばならない、その山の頂上に水境(鏡)神社がある。これは妙見神社であり相馬藩領であった。ただ飯館村の村史に山水境東洞屋とあるからこの洞屋が神社になったのかもしれない・・地名も水境となっていた。ここも境界の山としては要害となる。佐須地域でも敵が攻めにくい要害である。地図でみると津島がなぜ今も浪江なのかわかりにくい、でも歴史的にみると津島が標葉郷に属していたから継続として浪江町に属している。葛尾村と三春藩はやはり山を境として接している。そこでも境界争いがあり行司滝の伝説が生れた。黒木氏か伊達にとりこまれて相馬藩に敵対したのも地理的なものだった。伊達に近いところに領地があるからどうしても伊達と通じることになった。当時の戦争は地政学的要因が大きく作用したのである。今でも戦争には地政学的要因が大きく働く。地理を知ることは現代でも歴史や政治を通じる第一要件になるのだ。ただこの地理は実際にその地を路査しないと実感できないから歴史を理解することはむずかしいのだ。まず福島県の地理を理解すること自体相当むずかしい。会津までふくめると広いし会津だと山が多いから入り組んでいるからさらに理解しにくくなる。いづれにしろなぜそこに城があったのかとなると偶然ではなく相馬藩の場合は伊達の進攻を防ぐために新たに作られたのである。要害となる山がなかったことが第一の要因だったのだ。
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