車社会を見直すとき
(車は効率的な乗り物ではないー車社会の異常性に気づけ)
車を考えるとき車をもっていない人は車のことがわからないのである。
それで原町のモスバーガーが車のない人も入れることが二十年間わからずに大失敗だったいつも喫茶店を探していたがあの辺になかったがあったのである。
こういうことは車がない人にありうることなのだ、車社会になっているとき車のことがわからないのである。
だから車社会で車をもたない人は弱者になり一段と下のクラスに見られる、車もない貧乏なのかとみられる、そして金持ちは車の善し悪しで判断される、いい車をもっている人は金持ちである。
この辺で原発避難者は多額の補償金をもらった人がいてそういう人はいい車を買ったりしたからわかり反発を受けたのである。
車をもっていない人は車が社会でどう活用されているわからないのである。
ただ交通というとき鉄道が全盛の時代がありバスも活用されていた時代があり車社会になったのである。
車がなぜこれほど普及したのかそれは家からすぐに乗れて行動範囲が広がるからである。ただ車を見るとき車で見落としているのは盲点は車は空間占有率が高いことなのである。一軒車は小さいが意外と場所をとる、車は一台に一人しか乗らないことが多い
すると50人乗って移動するとどうなるか、50代の車が連なり百人になると百台も連なるのである。百台の車がつらなるとき道路をそれだけの場所をとる
だから渋滞にもなる、それで津浪のとき車が渋滞して被害になったのもわかる
誰でも車を日常的に使っていると何かあったとき車をまず利用しようとする、それは習慣なのである。自転車を足としている人は自転車を利用しようとするのである。
車は津浪から逃れるのにいいとみんな思っていた
ところが早いから逃げられると思ったが渋滞になって車が動けなくなったのである。
それは車がその時一度に百人も逃げるというとき百台にもなるからである。
それは道路を埋めて渋滞になったのである。
車は場所をとる乗り物なのである。例えは乗り物でもバイクとか自転車とかなるとそれほど場所をとらないのである。自転車だったら百台置けるところを車だと十台くらいしかおけないのである。それだけ場所をとるのが車である。
だから歩いて生活していた通りがシャッター通りになったりしたのは車社会になったからである。駐車するスペースがとれないからである。
道にとめて買物しているが危険にもなるからだ。
車社会を見直すというとき、車をなくすということではない、お前は電気もなにもない江戸時代に帰れとかいうとき電気をなくすことではない、車をなくすことではない
電車とかバスでももっと活用して車を減らすということである。
車は実際はエネルギー効率が相当に悪いし二酸化炭素も出している
エコな乗り物ではない、そして金がかかるということである。
車をもたないと生涯で二千万くらいかかるとも言われる
自分は車をもたなかったからそれだけたまったのかともなる
車に金がかかりそれで貧困化している日本では車をもつことは苦しくなっている
皮肉なことは都会は車なくても電車があるから暮らせる、田舎は車がないと暮らせないという矛盾がある、田舎では車は一人一台もっているのも贅沢だとなる
また高齢化社会で運転できなくる人が増えてくる、すると社会的弱者になり買物すらできなくなる、そういう買物難民がすでに増えている
車社会だから近くに店がない、みんな遠くにスーパーなどを作ったからである。
それも車社会が作り出したものなのである。
それが高齢化社会になったとき不利なものとして働くようになった。
高齢化社会はスロー社会だと暮らしやすい
盲人が電車に乗るのは停車時間が一分とか短いからである。それだけ時間も効率化したのはいいが障害者にとってはそのスピードに合わせられないのである。
それは高齢化社会になるとそうしたスピードに合わせることが苦痛になるし事故にもなる車社会が見直さなければならないというとき社会を歪(いびつ)にしてしまったことがあるからだ。街の中心部がシャッター通りになったり街としての機能を失ったとかである。
手押し車で買物も苦痛だという老人が街中にいた、近くに店がないからである。
だから高齢化社会は車社会を見直すのにはいいのである。
それは老人だけではないみんなにとって住み安くもなるのである。
例えば広域化社会とかグローバル社会とかも社会を歪にしてしまった。
そんなに遠くと関係して生活するということがいいことなのかどうかである。
基本的なものは地元でまかなうというのが人間的な生活になるからだ
そして足りないものは補うのがいいのである。
外部からのもので買ってばかりいることは豊かなことではない
ただそうはいっても矛盾しているのは自分は買物は地元の店ではしない
それは買物が毎日結構手間だからである。いくつもの店を回るのが手間になるからだ。
だからそういう矛盾は常にある。
車の一番の問題は何かというときそれが場所をとる、空間を占有する率が高い、実際に道路を毎日埋めて走っているのをみればわかる、それも日常の風景だけどよくよく考えてみれば異常な風景にもなる、車がない時代の人が見たらこれはなんなんだとなる
正常とか異常の感覚はとにかく慣れてしまえばそれが正常なのである。
何か異常と思えるのも社会に存在して慣れてしまえばそれが正常になるのだ。
その異常性に人間は気づかなくなるのだ。
車があって当然じゃないか、何を馬鹿言っているんだと実際なっているからだ。
車社会が正常なものであり車がないことは異常なのである。
戦争ばかりしていたら戦争状態が正常になり戦争がないことが異常にもなる
現代に何が正常なのか異常なのかわからなくなっている
それで異常なものにたやすく席巻されるのである。
それがカルト宗教団体とかであり他にも様々な異常なことがあっても気づかないのである車社会を見直すというときそういう異常性があるんだということを気づかない
車がこれだけあふれて空間を占有して金がかかりエネルギーを使い効率も悪いということを考えないのである。
この辺では原発事故で故郷が捨てられて空家だらけになった、その時異常の世界が映画のようにな世界になった、そして今までありふれたものが見直された
田舎の農家に通じる一本の道がアットホームに人のぬくもりを感じたというのもそうである、そんなの当たり前じゃないかとなるけど現実に人が住んでいない家がどうなるか
その異常な世界を見たとき今まであったありふれたものの価値が見直された
そのありふれたものの価値を見いだしていなかったからだ。
原発も異常なものだったが異常と認識できなかった、科学の時代に原子力があるのが普通である、先進国なら当然だとなっていた。だから原発が日本でこれだけ増えて危機感も感じないでいたのである。
人間は異常性に気づかないのである。車があるのは当然であり車がない社会は考えられない、でも車社会はもう飽和状態である、何か別な交通手段、今まである鉄道でも見直すときなことは確かである。路面電車などが見直されたのは実際に運行するようになったのはそのためである。ただそれも都会として規模が大きくないとできない
規模の小さい市町村では交通をとうするかが課題になっている
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