時代劇も事実を基にしている
相馬藩の新田村のおみかとは実在したのかなの再考?
飯豊耕土にや 箒はいらぬ
新田、おみかの裾で掃く
こんな歌が残っていること自体、新田は相馬藩の城からもさほど遠くなく古い地だった。
柏崎梅川のお釣り場からの帰りにおみかという娘を見せめて城勤めになったという。
こういう話は他でもいろいろあるから何が本当かわからない、ただこんな歌が残っているのだから
おみかとは実在の娘だったのだろうか?でもなんらか相馬の城の殿様と関係していたのか?
新田という地はそれだけ何か相馬藩の城の殿様と親しい村だったともなるのか?
ただこんな浮ついた話しがあるとすると他の村では面白くないだろう。
そんなことで村が厚遇されたりしたら他の村人は働く気がなくなるだろう。
誰か器量のいい娘を殿様にあづけて楽しようとかなる。相馬藩は貧しいからそんな余裕があったのかということにもなる。ただ別に殿様は当時は側女を多くもつことはとがめられていなかった。ただそれも豊かな藩のことである。
おみかがいて飯豊では働かなくてもいいという戯れ歌が残った
おみかの裾で掃くというのはおみかがいてそのおかげで箒もいらない、楽できるとなる
その反面として他の村では年貢が高くとられて不満があったとなる
最近昔のテレビドラマでも見ている、時代劇では悪がわかりやすい、西部劇でもわかりやすいから共通点がある。
その解決方法は銃であり暴力になってしまう、ただ江戸時代は公儀に訴えることができて裁判もあった。悪代官がなんでも勝手にできたわけでもない、座頭市のドラマでは隠密が調べにきていたのである。
でもそのドラマで新田村のおみかと同じようなことをテーマにしていた、庄屋の娘を側室にしようとしていた、それは結婚式の日に強引に奪うという筋書きである
それを土地の農民が年貢をこれ以上とられるとやっていけないとして庄屋の娘を代官にやれとまでなっていた。
すると新田村のおみかの伝説はそういう過去の歴史があって残されたものだろう。
それもここだけの話ではない、この俗謡は全国的なものであり九州から広がったらしいからだ。だからこうしたことは江戸時代に全国的にあったのかもしれない。
十九世紀の初頭、文化の前の享和の頃、名古屋では、
神戸伝馬町箒はいらぬ
鯛屋のお仲の裾で掃く
こういうことは誰か一人の女性がいてそれで繁盛する店のことである。村でも一人の美人がいてその娘が殿様にみそめられて側室になったら年貢が高くならず助かり楽をしたとなる
(現在の宮城県東松島市野蒜)を拠点とした近代的な港湾計画と、運河による交通網の整備を計画した。当時の大久保
野蒜新町 ほうきはいらぬ 若い女の すそで掃く.
これは明治時代まで全国で受け継がれた俗謡なのである。
これは別に殿様だと町娘でも農民でも気にいった女性がいれば側室にできる権力をもっていた。なぜならその村の農民に年貢を高くされたりしたら困る、一人の美人の女性がいてそれを殿様に与えれば村自体の生活が楽になるからだ
今からすると理不尽であり殿様が批判されるだろう。
でももともと武士の元をたどれば盗賊ともにている、治外法権のような所がありそこでは盗賊が支配する、するとそんなことはドラマではあからさまにしている
盗賊が支配者になるということである、みんな怖いから逆らえないのである。
それで中国で盗賊の首領が皇帝までなったということもわかるのである。
人間を支配するものは暴力と経済的富だったからである。
延宝郡上騒動(郡上藩金森家の財政難)
国家老遠藤杢助は半ば強引に江戸に出府して、常春や後見役に農民の窮状を述べ、増税を強行すれば御家の一大事を招く恐れがあると説いた。対案として家臣の俸禄六分の一を減じて財政を財政を補填すべきて訴えた。
これも年貢をめぐる騒動だった、増税派と反対派がいて騒動になった
増税派は自分たちの取り分が減ると反対した、公務員が月給が減るのだから当然反対するのと同じである。ただその月給というのが当時は米とかその他のものにかけられた税金だった、そうなると農民は増税には反対であり年貢が増えることは反対である。
当時の支配体制は侍階級の維持は年貢があって成り立っていた、それはより具体的である江戸時代は今のように複雑ではないから何でも具体的に悪が見える
年貢というのは具体的だからそこから歴史を知るのにはいい、年貢はより身近なものであり農民が汗水垂らして収穫したものを侍に納めなければならないからである。
今でも税金の関心は高い、なんでこんなにとられるんだと今でなっている
ただ今だと自分たちのためにもなるからやむなく払っているとなる
ただ現代は何でも見えにくい、複雑になりすぎているし国民となると数も多いから予算がどう使われているとかわかりにくいし関心が薄いのである。
江戸時代の藩だったら郡上藩だって二万石とか小藩だからより身近なものとして政治があった。だからその構図がわかりやすいのである。
時代劇も歴史であり歴史を学ぶにはいい、時代劇でも事実を基にしている、ただ面白いとして見ているだけでは勉強にはならない、そこに歴史の事実があるとき真面目なものとして見る、やはり歴史は事実の重みがあり成り立っている
架空のことではない、ドラマでもすべて架空のことだったらつまらないとなる
座頭とかは盲人が江戸時代に人口の8バーセントもいたというとき普通にいたのである。
それも栄養がたりないで盲人になっていた事実がある。
そして座頭転がしとか琵琶転がしとかがあり道から転落する
馬転がしとか牛転がしという地名が残るのもそうである。
目が見えなかったら道から転落しやすいのである。山道はこの辺の塩の道でも飯館村にゆく栃窪から山の道は沢沿いの道であり細いし転落したら怖いと思った。
馬で塩を運んだが一歩あやまると下の谷底に落ちるのである。
そういう道を歩むことは目が見えないとしたら本当に怖いとなる
いづれにしろ事実を裏付けにしないとドラマでもつまらない、しょせん作り事だとなってしまうからだ。そこに事実があるとき人間の真実が見えてきて参考になるのである。
そして歴史というときむずかしいものが多いがドラマだと入り安い、そんなことがどうしてあったのかと疑問をもつ歴史に興味をもつ、学者でなくても興味をもつのである。
相馬藩などもだから年貢から調べると興味深いものとなる
今まで書いたものが膨大である。その書いたものをまた再考して発展させる、それがプログとかインターネットではしやすい、本だと完結したものとして出しているがプログとかインターネットは完結しないものとして提示しているからだ
そして同じテーマでも何度も掘り下げて提示できるのが今までもの本とかとは違うものとなっている
【江戸時代の最新記事】
- 相馬市立谷家の歴史 (廻船問屋..
- 原町区上高平の春 (相馬藩の越中な..
- 文久元年ある城下町の一年(鈴木清著)を読..
- 橲原(じさばら)の山神社から堰を訪ねる ..
- 相馬焼きの歴史 (縄文土器から始ま..
- 大工から棟梁へー建築の歴史 (人間..
- 江戸は大消費地ー働かない侍が50万人 ..
- 相馬藩では郷士が多いから兵農分離されなか..
- 「相馬藩寛文8年百姓一揆の歴史的意義ー鈴..
- (冬の城下町)相馬市が城下町であったこと..
- 相馬藩への越中加賀などからの真宗移民はな..
- 元禄時代の新田開発された場所は水害を受け..
- 相馬市新田寺田に元禄の碑 (松川浦に接し..
- 相馬市日下石や柏アや磯部の歴史 (..
- 江戸時代の飢饉の歴史 (歴史の闇に..
- 南相馬市原町区の大谷(おおがい)村の由来..
- 南相馬市の鹿島区の隠町(かくれまち)の地..
- 本当はブラックな江戸時代 (戦後十..
- 老人の性にあうもの (時代劇を見..
- なぜ人は移住するのか? (深野の佐..