鰻を売りに天秤棒をかつぎ鹿島区の屋形から川俣まで行った人の話(続)
(それは本当だった)
うなぎ街道(山陰中央新聞)
この話しには驚いた。五貫目の鰻を天秤棒で八木沢峠を越えて川俣まで売りに行った話を聞いたという。川俣までとなると八木沢峠を越えること自体大変でありそれも天秤棒だとなるとバランスをとるのがむずかしいから余計に重労働になる。坂をのぼるときバランスをとるのが大変だったというからその話はリアルである。五貫目というとこれはかなりの重さである。
百匹にもなるのか?50匹くらいか、それほどの数でないとこれだけの重さにはならないかもしれない、それだけ売れたら大変な金になったからこそ川俣まで売りに行った。川俣では当時高く売れたということである。今でもそうだけどやはりバナナでも売れるのは金持ちの国である。食料品も金持ちの所に流れてゆく、松川浦でとれた魚も東京の方に高く売っていたのと同じである。地元ではかえって食べられなくなっていたのである。
川俣まで鰻を天秤棒で売りに行ったのは川俣が景気が良く高く売れるからだった。そうでなければわざわざそんな遠くに行かないのである。鰻取りは自分の家で思い出がある。父親が明治生まれであり鰻とりを田んぼの畦道などで良くしていたのである。子供のときついて行った。鰻の住んでいる穴を熟知していたりミミズを餌にして微妙に微調整して穴に入れるのがコツである。鰻をとったときはごちそうだった。家族みんなで鰻を料理したのである。その頃の鰻は天然だからうまかったのである。その鰻を川俣で売りに行ったというのは本当に驚きである。
うなぎ街道の記事を見て屋形で明治に川俣までうなぎを売りに行った話は何か信じられなかった、この記事を読んで信じた、全国的にうなぎは売られていたしうなぎは日本では貴重な食料でありエネルギー源であった
うなぎは栄養価が高いからである。地元でも自分の父親だけではなくみんなうなぎをとっていた。川でもとっていた。それはみんな天然ものだからうまかった
ただうなぎ街道となると相当な距離を運んだ、そのために苦しんだ
まず今の時代どうして天秤棒などでかついで川俣まで行けるのかというのが疑問になる
うなぎは水が必要だから水も運ばねばならない八木沢峠になると今でもそうだけど急峻な長い峠道なのである。そこをまず上るとすると容易ではない、天秤棒などかついで行けるのかとなり疑問だった、ただうなぎが屋形とか海老とかではとれた
結構多くとれたことはわかる、それを売りたいということもわかる
川俣は絹織物で栄えていたから金になり売りに行ったというのもわかる
でも本統治天秤棒をかついで八木沢峠を上れるのかとうことが疑問だった
でもこの記事のように他にもそういうことがあるということで信じるということがある
つまりここだけではなくうなぎを売るということは全国的にあったことなのである。
それもかなり不便な所を長い距離があるところを売っていたのである。
大阪まで売っていて出雲のうなぎは有名だったという、江戸時代とかがわかりにくいのは基本的に歩くほか移動できないことである。
川とか海でも船を利用しても基本的に歩くことなのである。
それが実感として理解できなくなっているからそんなことありうるのかとなる
うなぎは夏にはいいが今は中国産でありこのうなぎは何か不安なのである。
薬を使っているとか何を食わせているかわからないとかある、実際あれだけ安いということは何かあるということになる
ともかく過去はそれは実際にあったのか事実だったのかということがまず第一に知ることそれが歴史を学ぶことなのである。
時代劇だってあんなにばたばた人を切れるのかといったらそれは架空の物語である。
水戸黄門とか吉宗とかがバタバタと人を切るけど第一その人がそんなに位が高いと知ったら家来はいくらなんでも切ろうとするだろうか?
そんな危険なことはしないと思う、恐れいってしまうだろう。
それがフィクションであり事実に裏付けされていないからつまらないとなる
そんなハデなことはなかったのである。
第一水戸黄門は日本を旅行したことないというからあれはみんなフィクションなのである
ともかく昔の話でも伝説でも何でもそこに事実をよむことが大事になる
その事実から歴史をたどる、小説はフィクションである。事実を基にしてもフィクションである、それで司馬遼太郎は小説家であり坂本龍馬を英雄にしたてあげたというフィクションを歴史と信じてしてしまう危険がそこにあった。
いづれにしろ川俣まで屋形から天秤棒かついでうなぎを売りに行ったというのは事実である。するとその物語にも重みが生まれのである。
飯館村までの塩の道は実際に残っていた。それも沢の道であり馬一頭がやっと通れる細い道であり一歩あやまると下の谷底に転落する、そんな危険な道をよく行けたともなるがそれが歴史の道として残っている、それも全国的にありそもそもそうした危険の道が人びとは歩いていたのである。
山があっても道を作ることはできないとなるとそうした自然の道、尾根とか沢道を行ったとなる、そういう道はまだ残っているから実感できるのである。
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