マスコミにはリアリティのある報道がない
(個人の経験にリアリティがある)
マスコミの報道に本当のリアリティがあるのか?
例えばこの辺で起きた原発事故騒動でも報道するときリアリティのある報道をしただろうか?
確かに自分が原発避難者を批判したとき小高の人などから反発をくらった
でも現実に原発避難者が何をしていたのか?毎日パチンコ通いだったのである。
その時ボランティアが来て働いていたが避難者は何もしていない,パチンコでギャンブル通いだったのである
それにも理由があるにしてもともかくそれが現実でありリアリティだったのである。
そういうことはあまり報道されずただかわいそうだかわいそうだということしかなかっただから原発避難者に文句言うことはタブーとなっていたのである
マスコミでも常にかわいそうな人達としてその人たちを批判しないからである。
今でも何か小高の人達に文句言うと怒る,俺たちはかわいそうなんだぞ
何で同情しないんだとなる,そんな奴は誰もいない,マスコミの報道を見ろとなる。
別に自分でもその時介護や自分の病気で苦しんでいたし他の人も貧乏で苦しんでいた人もいる,借金で苦しんでいた人もいる,そして何か自分にその矛盾が現れた
自分が苦しいことなど関係なく親戚の人はパチンコ屋で借金を返すために働いていたのである。別にこれは原発避難者が悪いというのではない,ただそういう矛盾を生み出したからこそ原発避難者に腹ただしくなったのである。
ただその矛盾が実はリアリティだった,そのリアリティを自分は報告したのである。
報道で大事なのはリアリティなのである。
でもマスコミではリアリティは報道されないしされたとしても確かめようがないから何が真実かわからないのである。
良く極貧のことを話題にするけどそれも嘘だったということがわかった,それもNHKがその嘘を作り出していたのである。そこに本当のリアリティが報道されなかった
リアリティとは何か?それは事実なのである。
例えばリアリティというとき時代劇でもリアリティがあって成り立つ,事実があって成り立つ,ただ人などあんなにバタバタ切れない,ただその物語に何か事実がありリアリティがありそれで見ている,全く架空のことならドラマでも感動しないのである。
リアリティというとき報道されてもその事実を確かめようがない,だから映像でも作られた映像でだまされたことがあった,イラク戦争で泥まみれの海鳥の写真が世界中に衝撃を与えフセインは悪い奴だということがすりこまれたのである。
一枚の写真が世界をだました驚きである。その報道が確かめようがないからそうなる
マスコミの報道からは本当のリアリティを事実を伝えるのではなく常に放送局の方針によって編集して伝える,例えばある番組を現地の取材でも実際は100もの写真をとっている
動画をとっているでも報道されるのは1しかない,すると実際はのこされた99の記録したビデオに本当のリアリティを感じるものがある,でもそれは見れないのである。
ただyoutubeでは単調なものでも延々と写している,それができるようになったのがインターネットである。でもマスコミではそれでは視聴率がとれないからいい場面しか写さないのである
マスコミでは視聴率を一番に考慮する,阿部内閣の新しい組閣でもマスコミはサプライズを好むというときそうである。何か目立つものがないと誰も注目しないからである。
マスコミは常にサプライズを好むのである。目をひくものがないと視聴率が上がらないからである。
ただサプライズだけに目がむくと肝心の重要な事実が見逃されてしまうのである。
人間はいくらグローバル化しても世界の事実を知ることは不可能なのである。
だからフェクニュースでも信じてしまうのである。フェクニュースでもサプライズだから見るのである。視聴率を上げるためにインターネットでもそうしているのである
まずインターネットで読まれことは至難だからである。
リアリティとは何かというときそれは平凡な人でも日々経験していることがありそれを報告すればリアリティになる,だからインターネットがでてきてそうした個々人の経験が語られる,そこにリアリティがあることを知る
マスコミでは報道するときはそれが編集されているから本当のリアリティがわからない。それで個々人のプログでもネットでもそうしたリアリティに感心することがある。
ただインターネットは何か情報が多くて混乱しているから探すのがむずかしい。
自分がなぜ津浪や原発事故で報道したときリアリティがあったかというとその現場にいたからである。だから八沢浦が元の美しい入江にもどった写真入りで報告したときここで泥の中にうまった子供の死体が発見されたのだと顰蹙を買った
それも事実なのである。では昔の入江になり波がよせて太陽の光できらきら光っていたのも事実なのである。本当にそれが美しかったのである。
福島県では海があっても入江がないからである。荒々しい波が寄せるだけの荒寥とした風景なのである。ただ入江になると波も穏やかでなごむのである。
それが津浪で再現されたことに驚いたのである。
ただ津浪ではどろどろとして瓦礫の山となったことしか報告されていない,ただ悲惨なものしかなかった,でも一部に美が生れていたのである。それも事実なのである。
でもその美が生れたことは報告されていない,すると全体的に事実が報道されていないともなる,津浪はただ地獄的なものであり何にもいいことはなかったとなる
それは事実にしても八沢浦とか他でも海になったというときそこに美が生れていたのである。特に宮城県のように入江がない福島県ではそうだった
いづれにしろ事実をリアリティを伝えることはできない,その人の目で五感で感じたものを伝えることがリアリティなのだけどマスコミで報道されるのはマスコミという組織が会社が編集したものであり本当のリアリティとは違うのである。
ただマスコミの報道にもリアリティはある,ただ意外と地元でないとわからないことがある
例えばNHKで相馬市のトマト農家が飯館村の原発避難者を採用しなかった,それは相馬市は津浪の被害が大きい,だから津浪の被害者を優先した,それは別にトマト農家が差別したわけでもないのである。
なぜなら原発避難者には手厚い補償金が支払われていたからである。
それから浪江の会社経営の人が元の仲間に仕事をくれと頼んだらあんたは補償金で億の金をもらっているから仕事はいらないだろうと断れたということをちょっと漏らした
そのことは外部の人だとのみこめないだろう。
でも地元だとピンと来る,一番補償金でもめていたからである。
でもマスコミの報道はなぜ原発避難者を差別するのかと伝えられるのである。
要するに報道というのは相馬地方から福島県とか東北とか全国レベルにさらにグローバルになると確実にリアリティを失ってゆく,事実を確かめようがないからマスコミによって操作されることが多くなる,歴史も事実が基なのだけどそれがドラマ化するとドラマが真実のように思えるのである。
坂本竜馬が英雄化されたのも司馬遼太郎の小説によってである,小説は作られたものであり事実があってもそうである。でも小説の方をドラマを真実とみるのと同じである
そこに何がリアリティで真実なのか事実なのかを見極めることができなくなっているのであ。
とにかく報道は事実をリアリティを基にすべきなのだがそうなっていない
マスコミの意図されたものが報道される,それは作られた報道だともなる
都合の悪いものは報道しないしマスコミの意向に反するものはとりあげないのである。
江戸時代のように相馬藩内とかで暮らしていれば狭い世界だから知ることがでる
しかしもう福島県でも東北でも全国レベルになるとグローバルになると報道はリアリティを失い,ただマスコミによって操作されるだけだとなっしまっているのである。
そこに報道の根本的な問題がある,それはなかなか解決策が見いだせないのである
人間は今や報道によって翻弄されるのであり自らではもうその事実も確かめようがないからそうなってしまったのである。
八沢浦が元の美しい入江に戻った!
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