人間何のために働くのか?
(ただ金のためだけなのか?)
このことは自分の一つのテーマである。これはすべての人のテーマでもある。なぜなら日々働いているのが人間だからである。
でも働いている人自体がなぜ日々働いているのか?
明確にわかっていて働いているだろうか?
労働の経験がまれな自分がこのことをテーマにしているのも変だとはなる
ただ自分は働いたのではない,働かされたという経験しかない
金がほしい,その日の食を得るために働いただけだとなる
そういう人も多いしそれ以上考えないから別に金があれば多くの人は働かない
働くことを強いられている働くことは嫌でも仕方なく働いているとなる
まず家族のために働いているというのはわかりやすい,その一番の理由となるだろう。
働くのは嫌だけど家族を養うために働くことる生きがいを感じるからだ
でもその時働くこと自体に生きがいを感じるということではない
次に会社のために働く,会社が家族より大事に思うことさえあり企業戦士とか高度成長時代に言われた,戦士だから会社のために命をささげるほどに働くということである。
今でもそのことは継続している面がある,会社があってその人の存在意義がある
なぜなら日々会社に行き会社から月給をもらい生活が成り立つからである。
不思議なのはある会社がある,では無数にある会社はなんのためにあるのだろうか?
JRという会社がある,その会社はなんのためにあるのか?
それは人々に交通の便宜を計るためにある,そのために早く安全に人を運ぶことを仕事としている,それは考えるまでもないことである。
でも他に無数の会社は何のためにあるのか?
どんな会社も何かのサービスをするためにある?
建築関係になると個人的には快適な住まいを提供するということでわかりやすい,他に大きな公共的建てものを建てるということもある,それは個々人ではない,大勢の人のためのものもを提供するためである
医療関係だとこれも医者がいて患者を治すために働く,その他医者のすることはある
製薬会社は薬を作り人間の病気や予防などをする,それも実際は人にサービスするためである。
複雑な社会だからそのサービスも多岐にわたる,現代なら通信が発達している,するとそれを提供するためにITで働く,それもやはり人にサービスするためなのである。
何か会社というときこうして人に尽くす,サービスすることが基本にある
だから働くことは人にサービスすることだともなる,つまり働くとは自分のために働いているのではないのだ。
でもみんな自分が飲食して住居を得て自分が生活するために働いていると思う
他者にサービスするまえに自分の日々の生活のために他者にサービスする生活を強いられているともなる
現実に働かなくてもいい金があれば人は働かない,人にサービスするのはしたくないからだ,誰もコンビニでスーパーのレジで危険な建築現場で働くだろうか?
もし家でも自分で作るとしたら家族のために労を惜しまず働くのである。
他者のために家を建てるというときそういう動機はない,ただ会社のために金のために働くとなる
不思議なのは資本主義が修道院の中の労働からはじまったということである。
それは宗教的なものが信仰がバッグにあったということである。
そんなことが今や資本主義からイメージしにくい,宗教は人を助けるためにサービスするために働く,それが神の意志にかなうとなる,だから修道院では勤勉に働き人々に奉仕する,その結果として資本が蓄積された,仏教関係ではむしろ働かず人々の布施で生きていたから東洋と西洋では違っていたのである。
人間はそもそもそんなに働かないものだったからだ
資本主義社会は歴史的に異常に働く社会になったことは確かなのである。
宗教だと布施で生きるということは他者の労働により生きる寄食者にもなる
汗水垂らして働いた米でも農民からもらい生きることだからである。
だからこそ僧職にあれば最低の生活で身を修めて仏に仕えることになった
基本的にはそういうのが宗教のはじまりだろう。
ただ僧職としての専門家が生れて堕落したのは東洋でも西洋でも同じである。
明らかなことはウェバーが働くことにキリスト教の信仰にありそこから働くことが意義あるものとして奨励されたことである。
人間はそもそもそんなに働くものでは本来なかったからである。
働く動機がもてない,その動機が信仰に由来するとなれば人は無償でも働くとなる
ボランティアもこれとにているのである。無償でも働きたい,人のためになりたいと働くからである。生きがいとか何か他の動機があるにしろ他者のために働くのである。
働く動機は他に遊びたいから働くということが現代では多い,海外旅行したいからその金をためるために働くとか他に趣味を楽しむために働くとか遊びの世界が広がったからそのために働くのであり働くこと自体に意義を求めて働いてはいない
消費するために働くというのもそうである。何かうまいものを食べたい,でも金がないと食べられないから働き金を得る,金のために働くといってもその金を何に使うのかが問題になる,ただ貧乏になると衣食住のためだけだとなるだろう
その他そんなことを考えることはないだろう。一般的にはそうである。
現実に人を雇うがお手伝いさんなどはその家の塵一つでも掃除したくないのである。
金がほしいからしかたなくしているだけである。
ある人はただ金をくれといって家捜しされて大金を盗まれた
つまり他人の家で働く動機が全くない,金しかないから極端になればそうなる
家族だったら親でも妻でも自分の家だから掃除でも家事でもするのである。
そういうことは狭い地域で生きているとある
ゴミが道端に捨てられてあったが誰も拾わなかった,そこは自分の家ではないからそうなった,自分の家だったらするが外に出ると自分の家という感覚がなくなるからしないのである。それで自分がかたづけた,でも社会もまた家であり公(おおやけ)であり家なのである。
駅でボランティアしているのは自分の家のような感覚がありしている
自分の街がきれいになっていれば住んでいて気持ちいいからである。
自分の住んでいる所が汚いと嫌になる,だから山の斜面が土をとるために削られたのを毎日見ていると嫌な気分になったりする,景観というのは日々接する場所にいれば気になるのである。
それが一番現れたのは原発避難で街がゴーストタウンのようになったときである。
街全体に人が住まなくなり放置されればあのように荒廃してしまう
そしてそこに個人的に家に帰り住みたくないとなる,つまり常に自分の家のこと家族のために働いているが街全体のために働いているという意識がないのが普通なのである。
でも街全体が人が住まなくなり荒廃したとき実は意識しなくても自分の家のためだけではなく街全体の維持のために人々は働いていたのである。
だから本当は家族を維持するとしても街全体がなければ維持できない,それが原発で避難区域になったところで起きた。街自体がゴーストタウン化したからである。
働くというときいろいろあっても家族のためだけでもない,会社のためでもない,地域全体のために働かなけれも街が維持できない,それを如実に証明したのが原発避難区域である。
一人はみんなのためにみんなは一人のために(One for all,all for one)
そういうものとして街はあった,それが失われたのが原発避難区域の街だったのである。
いづれにしろ人間の働くことも多様でありそれをもはや解きあかすことはできない,これだけ複雑な社会になると余計にそうである。
ただ基本的に人にサービスするということが働くことにはある。
実際に鉄道でも人々がそのサービスがいらないとなると維持できなくなる
そのサービスが必要ないということは人のためになっていなから鉄道で働く人もいらないとなるからである。
その人のためにサービスすするにしても社会が変わればまたその職でもなんでも変わってくるのである。
ただ基本的に人に何かを与えるサービスするということが働くことのベースとしてることは確かなのである。
ニートとか無職は何も与えないから社会から責められることになるのである。
働かない人が金をもっていても批判されるのは人にサービスすることをしないからだともなる,何かを与えないからだともなる,ただもらうだけの人だったらその人は例え金があっても批判の対象になるのである。
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