2017年08月27日

しのびよる警察国家の影(白川勝彦) を読む


しのびよる警察国家の影(白川勝彦) を読む

職務質問でここまで抵抗できる人はいない,どう対処するのか国家公安委員長までしているきだから心得ていた

私が会いたいのは署長だけですから、誰が出てきても同じです

つまり警察でも市役所でも会社でもどこでも対応するのは責任もない下の人でありそういう人とあっても言っても何の効果もないのである。
私は上の人の命令でしているからわかりませんで終わりになる
市の問題でも何か市民が訴えても同じである。

でも署長に会えるのかとなると普通の人はできない,そこまで通すことはできない
それでも署長が最大の権力者でありその人に会って言わない限り効果はなにもないのである。下の人は何の責任もとらないし実行力がないからである。
適当にあしらって終わりになる
そういうことはみんなどこでも経験しているだろう。
官僚でも役人でも会社だったそうである。会社だったら社長に会えば社長が権限をもっているのだから効果がありその他はないのである。

つまり下の人は何もできない,すると権限をもっている社長が本当は大きな責任をになっている,警察署長なら署長が権限をもって部下に命令できるのである。
部下がそうして無法なことをしていたら注意するし改めさせることができる
部下が無法な職務質問しているのは実は署長の責任になる
でも署長は部下のしたことを知らないとうことがある,でも署長が責任があるとなる
それは公安委員長までしていた人だから知っていてできたのである。
社会とは誰が実質動かしているのか?そうして権限と権力をもっている人だとなる

ここで問題になるのは、Due Process Of Law という考え方なのです。法の適正手続きなどと訳されますが、本来の意味はちょっと違うような気がします。国民の生命・身体・財産などに対する強制力の行使は、法が定める正当な手続きと方法に基づいて行なわれなければならないという、かなりポヂィティブな意味をもっている概念で、アメリカ法のもっとも基本的な理念のひとつです。

誰に対してもできるというものではないのです。

異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して、何らかの犯罪を犯し、または犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者

こういうことが匿名の者があそこにあやしい人がいるというだけで職務質問できるのか?
その理由が全くないのである。第一あやしいというだけでどうしてあやしいのか聞いていないからである。理由がなくてもしやしいと通報があったら職務質問する
それも何度もあやしいとだけでも通報があれば職務質問に来る,それが勤めだと言っていた,こんなことが通るのかとなる
こうなったらもう警察国家ではないのか?
誰かが勝手に通報する,そしたら市民を勝手に職務質問して身体検査もできる
それはまさに警察国家である。

国民に信頼されない警察には、情報も集まらなければ協力も得られないからです。国民の情報提供や協力がなければ、犯罪の捜査といえどもその実をあげることはできないのです。それは、他の警察活動でも同じです。しかし、権限の塊ともいうべき警察組織の中で育った警察官は、意外にこうしたことを知らないのです。国民に恐れられる警察が強い警察だ、と勘違いしている人も結構いるのです。だから、私は「国民に信頼される警察になれ」ということを強調したのです。

警察のこうした横暴を許したら警察国家になる,市民は誰かがあやしいと通報されれば強制的に職務質問される,これこそ昔の特高と同じである。つまり警察国家であり市民の安全は警察がおびやかしているとなるのだ。
警察でも市民に国民に信頼されなければつとまらない,だって公務員とは市民に奉仕することだからである。その市民が主役なのである。
市民の意識をもち市を作り上げてゆくのが市民なのである。
そういう市民意識がないと北朝鮮のような戦前の日本のような警察国家軍隊国家になり市民が300百万人も死ぬはめになる

そういう危機意識をもつ必要がある,何でも権力の一方的行使になると危険になる
それは原発事故でもそうだった,「安全神話」には検察がかかわり今でも幹部が逮捕もできないからである。ここでも原発の被害にあったものはそうした国家と一体となった
東電とかに疑問も抱くことがなかった,それがこれだけの被害になったのである。
それは戦争ともにている,行政でもこういうことがある。
市役所の職員が必ずしも市民に対して奉仕するということがあるとは限らない
適当にして無関心だということもある,市民が主役であり市民が目覚めなければ
市も良くならないのである。

日本は歴史的にお上に支配され言いなりになってきた歴史が長い,だから市民意識が希薄なのである。村という狭い意識しかもっていない,そううい歴史がないことが日本も容易に警察国家になりやすい体質になっているのである。
欧米では権力の抵抗から市民革命が生れてきた経緯がある,それがない日本は容易に警察国家になりただお上の言うことを信じる,そして戦争でも原発事故でも大被害を受ける
市民というときブルガーであり市壁に囲まれて市民が敵と戦うという歴史がヨーロッパにはあった,日本は村がコミニュテイの単位でありそういう市民が共同して戦うという歴史がない,ただお上の言いなりになりやすい国なのである。

ペイトマンは政治参加の体験が政治的有効感覚を生みさらなる政治参加を促進するとしているが、バーバーは政治参加によって市民相互の友情が育まれ公共善への関心が生じるという。

政治に課せられた最も重要な課題はアクティブな市民社会を再生すること
である。そのためにはシティズンシップの尊重と市民に公的空間へ参加する権利を保障する必要があると主張している。

パスポートにはどこのシティに市に属しているか書く,日本の感覚ではない
(citizenship)もない,市民という言葉そものものが日本にはなかったのである。
だから訳しようがないとなっていたのである。
市民の政治への自主的参加なのである。それはボランティア精神にも通じている
警察が市の職員が公的な機関にまかせるだけで市は良くならないのである。
駅は公的空間でりそこに参加する権利があり保障する必要があるとなる
その公的空間から排除されたら市民はただ警察の言うなりになり市民の連帯も失われるのである。

原発でも市民の抵抗が弱いのはそのためだった,市民というときまた左翼のようなものではない,それもまた一つの権力を形成する,カルト教団も一つの大きな権力を形成する
そういう団体はまた国家権力を形成する,それは中国が共産党一党支配となっているのと同じである。それは市民の国でもないし政府でもないのである。
まさに警察国家になる,そこには民主主義などないのである。

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