死後にひびく言葉
(「心の青雲ー都築詠一氏へ献げる詩)
(君のからだ,日常振る舞いは極上のものか,死んだら君は極上のものとなる)
ホイットマン(草の葉)
死後にその人の
重い言葉がひびきわたる
崇高なる峯のように
荒々しい山嶽のように
そそり立つ巌のように
不浄を拒否して
そは天に聳え立つ
風雪を帯びて厳しく
烈風はその高峰に唸る
氷河にも閉ざされて
銀河をちりばめる
崇高なるもの目指せしもの
そはその途上に倒れぬ
高潔な死者の霊はそこに宿る
しかし死後その言葉は
荘重にひびきわたる
硬質な鋼鉄のような文体
その言葉を受けるものは誰か
その厳しさには人は耐えかねる
それは天上よりの声となりしや
死後にその言葉は重くひびきわたる
死んだら極上のものになるといってもみんなそうとは限らない,その人が生きたものが極上だったら極上になるん,生と死は切り離せないのである。
ただ死ぬとその人を客観的に見れる,生きている内はその人の欠陥などの方を指摘する
でも死ぬと人間は美化され祭り上げられたりもする
過去が江戸時代でもみんないいものではないが過去を理想化し美化しやすいのである。
「心に青雲」の都築氏はプログでしかしらない,ただずいぶん長く読んでいた
旧プログ時代からも読んでいたとする長い
するとそれだけ毎日読んでいたらその人の思想とか何かに染まる
何か文章に独特の張りがあった,やはりプログで表現するものと本とかで表現するものが違っていたためだろう。その文体が過去の伝統的なものと現代的なものがミックスされたということもあるだろう。
インターネットだと生放送のようにもなり話し言葉になりやすい面があるからだ
何か近寄りがたい厳しさが文から感じた,人間も簡単に近寄れるような人,語れる人だとたいしたことがないともなる,彼はマスコミでも何かバーに出入りする文人仲間でも
そういう人と相互浸透するから交わらないと言っていた
A型で潔癖症だったともなるがそもそもマスコミでも何か商業主義の場だから汚れる
そこでは出版社でもそうだがもうけるために適当な大衆受けする人を作り上げるのである芥川賞なんかそうである。そういう世界を相互浸透するからと嫌っていた
結局そういう世界を拒否するとき孤高となり社会から隔絶してしまう
でもまた逆にしきりに社会性を言っていたのはアウトサイダーとは違っていた
その辺が良くわからないことがあった
いづれにしろ死んだということでその人のことを語り安くなることは確かである。
生きていたらとても語れないからだ,現代では70才の死は早いとなる
ただすでにその年で死んでいる人は結構近くにもいる
自分もすでにそうして死は真近なのである。
タグ:都築詠一の死
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書物というのは、通して読むもの。
インターネットは、読み通すものではなく、クリックしてあちこち飛ぶことを前提して書かれている。そのとき文章は情報として透明になる。
つまり、書物は情報ではなく、精神だと。
精神には不透明さがつきまといます、
コメントありがとうございます
プログはどうしても日々のことが入ってくる
ジャーナルの機能がある
日々感じたことがストレートにプログに書き込まれる
そこが本との相違である
本は一冊のものとして完結したものとしてある
プログは毎日の積み重ねである
プログの特徴としては同じことをその人の主張したいことを
何度も主張できる,趣旨は同じなのだが例えは赤でも様々な赤がある,
同じ赤でも多様な赤があるのだが確かに赤の変化なのである。
そしてインターネットの場合どうしても知らずにリンクしている
誰かが同じようなことを考えている
それをキーワードで知る
他者のものが必ず入り込んでくる仕組みになっいる
「平等と公平」というのでも書いていた人がいたので自分も引用して書いた
ともかく本というメデアとインターネットでもプログというメデアは違ってる
自分は本中心に読んできたから本の方が読みやすい
本は今は全体をほぼさーと読んで把握する
そしてその趣旨をとらえやすいのである。
ページをとばしても後ろから読んだり中途から読んだりしても
全体の趣旨をとらえやすい
プログもキーワードの機能があるから何か一つの関連したものを探りやすいことはある
でもそもそも本とインターネットのメデアは違う,インターネットでもプログとなると
また違ったものである。
プログとなると都築氏の場合,全体を見るのがむずかしい,それはプログはみんなそうなっている,だからその趣旨を明確にするために編集する必要が生れる
それは自分のホームページでもプログでも今そういう作業をしている
こんなことを書いていたのかと忘れたことが多いからである。それで自分で書いたものを新たに発見しているのである。だから記録は大事だなとつくづく思った
それにしても旧プログからも読んでいたとなると10年近くに読んでいたとなる
それだけ「心の青雲」は自分は熱心に読んでいたから死んだことは衝撃でした
本とインターネットの相違とかは前にも書きましたが一つの現代のメデア論としてテーマになっている,本の長所とインターネットの長所と欠点など必ずひかくされるようになりましたから
その点はまた書いてみたいと思います・・・・・
夜の書き込みをすると都築さんは叱るんです。
そしてなぜ人間は夜の睡眠をちゃんととらないといけないのか、人間の誕生から人間の体の成り立ちまでを踏まえてこんこんと説くのです。
私の町では正月に裸で綱引きをするするのですが、都築さんはとんでもないと怒るんです。身体は絶対に冷やしてはいけない、とこれもその理由を明快に徹底して説くんです。
都築さんは夏の焼けつく道路や砂利道を素足で火傷をしてもやらなけれなならないといいます。足裏を鍛える理由も実に見事に明快で説得されました。
筋トレなどはするな、庭の草むしりや
筋トレなどするな、庭の草むしりや日常生活の中で身体はは鍛えなくてはならないといってました。空手の修業は段位が高くなるほど、炊事、洗濯、掃除で鍛えるのだと。
食べ物についても、事細かに良い悪いを繰り返し論じていました。
ラジオ体操は朝やるべきか寝る前かも、教えてくれました。
手の水かきを引っ張る健康法も、どれほど効果があるのか自身の体験から詳しく話してくれました。
とにかく、人間の誕生の歴史からすべてを説き起こすのですから、正否や善悪を超えて、面白さは格別でした。
・・・・・・・・・・・・
確かにそのことは一番印象に残っています
それが何かリアルで訴えるものがありました
何か絶えず訓練していた,修行僧のような人だったようです
自分も天才ではないから平凡な人間は
そういう鍛練とか訓練が必要なことがあるので共感していました
素足で炎天下の道路を歩いて20年になりますが、一度も風邪をひいていませんし、歯科医以外病院に行ったことがありません。
つまり修行僧や鍛錬の意識があるうちはまだ初心者なんですね。都築さんは、普段の何でもない立ち居振る舞いが技になっていました。
都築さんが前から裸足でただ歩いてきたとき、ドキッとしたことがあります。前に出した足先が、前蹴りの形になっているんです。
もし私が暴漢で殴り掛かったとしたら、まちがいなく蹴りの一撃で倒されていました。
空手は言葉では伝えることに限界があります。
空手という特殊な武技を持ち出すまでもなく、自転車の乗り方、泳ぎ方、熟練工の技能とか、言葉で逐一トレースするのが困難な、行為としての記憶は言葉にできません。
都築さんが、ブログを残さなかった理由は、生涯本気で打ち込んで極めようとした、空手を、言葉にできないことを知っていたからです。
つまり修行僧や鍛錬の意識があるうちはまだ初心者なんですね。都築さんは、普段の何でもない立ち居振る舞いが技になっていました。
.....................
わざわざ作らなくても日常の動作のなかで技になっていたとなると達人ですね
そのことはプログにも書きました
型を習うだけで普通は精一杯ですから
自在になるというかそこまでなっていたというのはやはり違っていた
ただそういうふうに訓練してなったのか?
なかなかそこまでは天才のような人でないと
なれないと思います
でもそこまで自在になれるということは
無意識の内に技が出る状態になっていた
良く空手のこはわかりませんが
日本古来の武道には欧米にはない
何か日本古来の精神が受け継がれている
そういうことを都築氏はプログで語っていたようです
文学とかにも造詣が深かったしいろいろ検討することがある人でした
小林
体力の概念が根本から違います。普通は筋力が一般的です。でも都築さんたちの空手では、骨体力、神経体力の概念があってそれを鍛えるんです。
この鍛錬法は、食事から睡眠から生活すべてにわたって律するもので、したがって天才という概念はありません。虚弱体質でもラジオ体操ができるのなら、だれでもが強くなるという考え方です。
どんなに運動神経が無くても極端に気が小さい人でも、指導者がつきっきりで段階をふんで、人間体から武道体に変えるのです。
普段の生活では、体が大きい人と小さな人とでは体力差が出ます。それが人間体ということです。
その人間体を、空手の技を身に付けて武道体に変えるのです。俗にいう柔よく剛を制すですね。
都築さんたちの空手には、もう一つ体を使うほかに、頭を使う鍛錬もするのです。それは、空手の実践体験を言葉でたどる、レポートの提出です。この論文はパソコンではだめで、手書きで一定の文字の美しさも要求されます。
つまり、都築さんたちの空手は、強ければいいのゴリラの空手は絶対に認めません。文武両道が絶対条件です。したがって全員自分の専門の学問(国家論や医学や教育)などの探求も、空手の実践と同時に必須でした。
・・・・・・・・・
都築氏の主張は空手だけから説いていない
全生活の中に空手がある
だから学問も空手と一体としてある
それで今回「時事問題の深層」で自分も男女平等も国家の問題としてある
国家があって学問があり空手もあるということを言っていましたね
空手だけに励むのではない,国家があって空手に励むのだと・・・・
だからこの都築氏の国家論が意味しているものを検討する必要がある
常に戦後は国家が否定されてきたからです
それは男女平等でも武道にも言える
これからはやはり右傾化するが
やはり日本の新しい道を模索する時代になったのです
なかなか都築氏の思想を全体的に理解することはむずかしいです
光厳天皇などに光をあてたのもめずらいしとなる
ただわかりやすいつ書き方をしているから
理解できないことはないです
都築さんと議論するときの必須な著作があるんです。それが前提にないと門前払いなんです。
都築さんの理解はですから、その段階を順序だてていくと、頭の良い悪いに関係なく誰でもがたどれるようになっています。
時事的な文章は、国家論を踏まえない限りただのインテリの遊びにすぎないことは、都築さん自身もよく知っていて書いていました。
都築氏のバックボーンとなっている思想がある
人間は一見独創的なようでも必ず参考にしいるもの影響されたものがあり
それが出てくる
南郷学派とか滝村隆一の国家論と何かとなるこれまて自分にはわからないです
アマゾンで調べたら本がでていました
これを読むのも大変です
都築氏の文章はそうした硬い学問と違ってわかりやすいから読んでいた
学問となるととっつきにくくなる,彼の場合実践的学問ですよね
ただ光厳天皇とかに光をあてたのは一つの功績でしょう
ただ自分も俳句とかで子規の写生論に学んで来ましたがそれの元になっているのが
風雅和歌集だったというのはからなかったです
ただ結局そうしたことが深く批評として展開できずに死んでしまったのが残念です
いろいろと日本文化に造詣が深かったです
それをもっと知りたいということがありました
国家論となるとむずかしいがそういう方面は自分も追及していたので共感していたのです
この本を読むと、「いのち」とは何か?の謎が解けます。
中学生の学力でも読める文章ですが、内容は世界水準にあります。
都築さんは、この本は志ある人には必読と、子供から大人まで薦めていました。