2017年09月16日

南相馬市の萱浜はカイハマでありアイヌ語地名か? (真野の萱原の歌は萱浜(カイハマ)のことか?


南相馬市の萱浜はカイハマでありアイヌ語地名か?

(真野の萱原の歌は萱浜(カイハマ)のことか?

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●東北地名に残るアイヌ語地名

アイヌとエミシの先祖は、後期旧石器時代あるいは縄文時代において、かなり近縁な種類の人々であったと思っています。

そして、同じ「蝦夷」でも中世以降の北海道人は「エミシ」ではなく「エゾ」であり、「エゾ」の子孫はアイヌだと思います。「エミシ」と「エゾ」は違います。


 この本では、東北地方でドングリの総称を「シダミ」と呼んできたと記している。そう言えば、岩手や青森には「豆シトギ」という餅状のお菓子がある。大豆を素材とする甘味としては宮城・山形の「ずんだ」よりも洗練されているとの評価もあるが、この「シトギ」は「シダミ」と語感が似ているが何か関連があるのだろうか?

 アイヌ料理にも「シトギ」という餅料理があるが、こちらは、大和語の借用と言われている。



アイヌ語のオタ(砂)オル(多い)からタルに変化して「垂る」の字をあて「垂れ」とよみかえたものか。

- 比内
φ 佐比内。比の沢
A 小比内
圃火沢
φ 猿飛来
. 檎(ひ) (沢) (内)
. 檎(ひ)の沢
。檎(ひのき)(沢)
{F 槍木(ひのき) (内)
~ (沢)

福島県以南の分布は以北との聞に断絶があるようでもあり,あるいは北関東にまたがる分布は文字通りの「ひのき」の意かもしれ
ない。しかし・南の分布も「沢」地名であり,文字の構成も北の分布と共通している。

これがアイヌ語地名に由来している,秋田県と青森県に多い,檜(ひのき)は木のことではない,檜枝岐(ひのえまた)もそうである。


●南相馬市のアイヌ語地名?

最近江垂について書いた,江垂(えたり)はタルがアイヌ語のオタ(砂浜)がなまったものだという指摘,それはその地形からしてあっている
江垂は海に面して砂浜のあったところだとなる
それは津浪で六号線の江垂りまで来ていたから具体的にわかった
そして桜田山の下に縄文人の遺跡がありそこから魚の骨や鹿の骨などが発見された
つまりちょうどその江垂から砂浜になった奥でありそこに住居があったとなる
位置的にあっているからだ

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そして原町の海岸に雫(しどけ)とある,これはシダミでありそれがシドキとなった,アイヌ語から来ている,それは食料だったのである。
東北地方にはアイヌ語が地名として残されているというとき蝦夷とはアイヌなのかとなるそれは学問的にもわからないのである。
わかっていることは漁労とか狩猟とか採集であ生活形態が同じなのである。
それは縄文人もそうである。つまり人間を分類する場合人種ではなく生活形態で分ける
羊を飼う遊牧民と農耕民でもそうである。それは人種より差が大きいのである。
だから遊牧民と農耕民は互いに理解できなものとなり争いとなる
それが万里長城を作ったのである。

だから日本でも蝦夷とかアイヌとかあれば稲作をする,米を食べる人達との生活形態の相違で区別されていたのである。蝦夷とはアイヌのように漁労,狩猟,採集を生業としている人達のことである。
だから同じ日本民族と同化させようとしたとき稲作を普及させたのである。
だから原町に雫(しどけ)とあるときそれは採集を生業とするからそういう地名となったのかとなる。
蝦夷(エミシ:エソ)は海岸を中心に生活していたからエのつく地名が多いとなる
海老でも(エヒ)でありエは海の意味だとなるからだ
そういう地名はだから一番古い,縄文時代にも通じる地名だともなる

●真野の草原(かやはら)と萱浜(カイハマ)の謎

この謎は深い,北海道は北加伊道が北海道となった,加伊はそこに育ったものとか住んでいるものとかなる,カイとはアイヌ語でありアイヌの人達はカイとも呼ばれていたのである。
原町の萱浜(かやはま)は前はカイハマだった,そのカイは甲斐の国にこじつけられて地名伝説が生れた,その地名伝説はたいがいあとから来た人がこじつけてつくられたものなのである。
カイとはアイヌ語なのである,そしてなぜカイがカヤとなったのか?
それはやはりなまったからだとなる

そして真野の草原という万葉集の歌は草原という地名が真野郷にはない,これが最大の謎だった,でもカイが萱浜(かやはま)になったように草原(カヤハラ)も同じだとなると
そもそもこの辺にカイというアイヌの人達が住んでいたのかともなる

説としては

●カヤはカイでありアイヌ語である(有力)

●草原(かやはら)-萱が繁っていた

●伽耶(かや)国に由来している

●ツノガノアラシト系の渡来人の系統に由来する

まず草原(かやはら)というとき真野郷内に地名がないということが最大の謎であった
でも真野郷の隣にカイ浜があり萱浜(カヤハマ)になっている
それは近辺に雫(しどけ)でもアイヌ語系統の地名がある,とするとすぐ隣のだから真野の草原(かやはら)とは広い地域としてあり萱浜(カイハマ)も入っていたとなる
そう解釈すると地名が確かにあり説得力がでてくる
ただ石巻には真野という地名がありその中に萱原(カヤハラ)があり一致している
致命的には一致している,ただ発掘物とか最近の研究ではどうしてもこの辺が真野の草原の地域だとされる,石巻の真野の萱原だとすると遠すぎるのである。
ヤマトから進出した人たらは渡来系のツノガノアラシト系などは末続とか小高の角部内(つのべない)とかありこのナイは小さな川の意味があるからツノベとナイというもともとあったナイとアイヌ語の川という地名が合体したのかもしれない

このツノガノアラシト系に津神社(つのみや)神社が海岸線に多い,これはツノミヤでありツノガノアラシト系の神社だった,それは青森の津軽(ツガル)もツノガノアラシト系であり青森と交流も福島県であった
そしてアイヌ語圏は北海道から東北地方にありその境目がこの辺だった
つまり真野の草原(かやはら)の地点だったのである。
ヤマトの勢力圏に入るのとアイヌ語圏との境目が真野の草原(かやはら)の地点だったのである。
海老が車輪梅の南限の地としてあった,それは自然境界であり歴史的境界ともなり一致していたのである。そういうことは自然境界と歴史的境界が一致することがある
ライン川はローマ帝国とゲルマン民族を分ける境界であり自然的境界であり歴史的境界となっていたのともにている

そして確かに伽耶国というのはなじみがない,でも笠女郎(かさのいらつめ)は前にも考察したけど吉備の出身でありそこは伽耶国と深い因縁があり歴史的にもその証拠がの残されているのである。
笠というのは笠とはなんの関係もなく加佐という韓国の地名だったのである。
笠と名のつくのは韓国系統の名なのである。
埼玉の稲荷山鉄剣に記されていた名に加差披余(かさはよ)がいる,これは笠になった,笠原氏なのである。それは明らかに吉備の国の笠に通じて真野の草原の万葉集の歌を残した笠女朗に通じている,笠女朗は笠系統の人でありそれは渡来人系統にもつながる女性だったのである。何か遊行女婦(うかれめ)のうような女性ではない
古代にあれだけの歌をそういう女性が残せるわけがないのである。
相当に教養がないと残せな歌だったからである。
なぜ古代に渡来人がこんなに関係していたのかとなると産鉄族として鉄を作る技術集団だったからである。だから一方でカヤは鉄と関係していたともされる
海岸沿いに砂鉄があり鉄作りしていたことは遺跡からも明確であるからだ。
そして笠女朗というのは吉備の出身でありここは伽耶国の人が移住した地域であり吉備は真金吹く・・・の歌で有名なように鉄の生産が盛んな所だったのである。
そして吉備は会津とも深い関係があったから福島県全体に深い関係があった

ただこの四つの説でどれが有力かとなるとなかなか判定しにくい,伽耶国といってもこれまた何かまだ証明するにはむずかしい,有力となるのはやはりこの辺一体にアイヌ語地名が残されているというときやはりアイヌ語のカイが有力になる
つまりこの辺全体の地名からその共通性があるからだ
ただ問題は真野郷からはずれているがすぐ隣なのだから辻褄はあうのである。
そこは桜井古墳もあり泉官衙(かんが)跡泉廃寺跡もあり真野郷として一体であったのかもしれない

いづれにしろアイヌ語だとするとそれは今北海道にいるアイヌのことかとなるとこれも研究者の間では明確にされない,今いるアイヌとは別だとされている
その謎は解明されていないのである。

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