2017年09月22日

心の青雲の都築詠一氏の映画批評は面白かった (敬愛するベートベンを見て)


心の青雲の都築詠一氏の映画批評は面白かった

(敬愛するベートベンを見て)

記録は、どれだけ時間が経過しようとも変化することはありません。記録を残すことによって、当時の自分を主観的ではなく、「客観的に」振り返ることができるようになるのです。

心に青雲の映画批評をしていたが面白かったしそんな映画があったのかとアマゾンで注文して買った,過去に作られた映画も膨大にあった,しかしそれを見るのはほんの一部だけどインターネットで注文できるようになった
映画は現代の代表する文化である。映像の時代になったのが現代だからである。
都築詠一氏の批評は様々な分野に及んでいた。
だから批評家として十分に一流になれた人だった
でもなんか中途で死んで終わったなという感じになる

ログがみんな残されていればいいのだがグーグルで確かに残っているが全部は残っていないみたいだ
そしてなぜ消したのか?死んだらすぐにプログとかインターネットは消されるのか?
全部保存してあとでみんながまた読まれるようにしておくべきだった
貴重なものが消失したとなると後世のためにもならない
ただどこかで記録しているところがあるのかもしれない。
ただ全部は記録されていないのである。

「敬愛するべートベン」でも批判している,芸術家でもそんなふしだらな生活をしてはいけない,まともな社会人であれということである。
確かに天才的芸術家となると社会人としての常識すらなくなる,だからこそ天才であり後世に作品を残したとなる。それでなければただ平凡な人として終わっているだけである。

一方では聴衆の質の低下を招く。こうなると繊細さや知的な面白さではなく、すごいといわせる一種のハッタリが有効になる。これが大音量と高度な演奏技術を発達させる。ストラディヴァリウスなどのバロック時代の名器も、音量増大のための改造がなされる。19世紀になると、音楽は途方も無い技術をもったプロがステージでするもの、になり、プロとアマが分離し、スター演奏家が誕生する。

信仰年のためのベートーベンの交響曲第 9 番のコンサートでの、教皇フランシスコの突然の欠席は、解読困難な彼の教皇職のスタートを象徴する出来事であった

ベートベンの時代は音楽も変わり目になっていた。社会が変わってきた。
教会一辺倒の世界から脱出する時代だった
ただなぜ教皇が第9の演奏に欠席したのか?映画では特等席に座っていた

自分は音楽には詳しくない,この映画で注目したのが家政婦が金を盗んだのかとか疑っていたことである。家政婦はまずやはりここでも危険な存在なのである。
インドネシアでも老夫婦が殺されたように金をもっていると危険になる
でもインドネシアとかでも家政婦を一人雇うことは決められている。
その家について詳しくなれるからだ,すると貧富の差が大きいと犯罪になるのである。
家政婦とかちょっと手伝う女性でも家に入れるとなると危険になる
そしてそういう人をかかえこむほどやっかいなことはないのである。
絶えず金を要求されるのである。それがないなら盗まれるということである。

一方でベードベンの音楽にひかれてきた音楽を習う女学生は別だった
譜面を書写する役だがまさにベードベンをその音楽を敬愛していたからである。
まず家政婦とかなるとただ掃除とか料理をだすだけでありか音楽とは関係ないのである。だから働く動機は金しかないのである。だから危険になるのだ

ベードベンも金に困っていたのか?アパートのような所で作曲できたのかとなる
第一ピアノの音がもれたらうるさい,そこで下の階にもれるから騒音問題になる
そんなことをベードベンは気にしない,今なら大邸宅で作曲していたろう。
ただ隣の部屋の老婆はベートベンの音楽が聞けるので不満があっても我慢していたのである
へたなピアノを聞かされたら嫌になる
あんな部屋で作曲すること自体,環境的には最悪だったような気がする
やはり芸術でも学問でもそれなりの環境が調わないとできないことはある
だから貴族の師弟しか昔は学問でも芸術でも習うことはできなかったとなる

映画は暇つぶしにいい,最近見ているのが「座頭市」である。
風景が江戸時代を想わせるように作られている,土橋を歩いているところなどうである。あんな橋がこの辺にかかっていたのである。
昨日見たのは親分が役人に追われて子分と二人で逃げていた
親分には百両の賞金がかかっていてねらわれていた
そしてつてを頼り前に世話した親分をたよる
でも子分はその逃避行に疲れていた,嫌になっていた
それで親分を殺すことにしたのである。それをつてを頼った親分と一緒になってしたのである。それで役人からもほめられたり得になるから共同でした

この裏切りも恐ろしいけど人間は利がなくなれば離れるのが普通である。
そんなに苦しい目にあってまで義理を果たすことはないのが普通である。
これは介護で疲れて親を殺すのともにている
あまりに苦しくなると人間は肉親でもそうなる
だからこれは特別なことではない
親分はもっと子分のことを考慮しないといけなかった
俺一人で逃げるからお前は別に生きろとか言うことも必要だったとなる
なぜならその子分は疲れ果てていたからである。

ベートベンでも家政婦は盗むことしか考えないがベートベンの音楽を敬愛していた女学生は違っていたのである。
そういうふうに動機があるなしで人間は違ってくる
女学生もベートベンを嫌ったけど音楽の絆で結ばれていたとなる
まず人間はあまり小さいことを言われると大物にはなれないかもしれない,日常のささいなことに使われていたらとても大芸術家などにも何か他でも大物にはなれない
社会をはずれたようにならなければ大物にはなれない
そういう環境にないと大物になれない
教育でもそういう教育をしないと大物になれない,平均的なことをして平均的なことを教えていたら個性的な人は生まれないのである。
人間は生まれつきですべては決まらない,平凡な人間でもあることをきっかけに変身するダビデは石コロをなげてゴリアテに勝ち一躍英雄になる
人間は人生の中で鍛えられ変化するのである。

天才も資質も大事だが環境も大事である。
もう毎日肉体労働に費やされたら知的な探求もできない,本すら読むことができないのである。
ただベートベンと普通の人と比べることはできない,同等に扱うことはできない
でも才能があったとしてもそれを開花させる環境がなかったらどうにもならないのである自分の場合は20代で書斎をもっていた,でも本を買うのでも少なかった
なぜなら本は地方では買えなかった,専門書は仙台まで行かないと買えないし今のようにインターネットもないから知識的には地方は不利だったのである。
今わかることは本は相当な量を読まないと知識の世界では狭いものとなってしまうことがわかった,あるものは深く読むにしても学問の探求とかなると相当な量を読まないと独創的にもなれないのである。
ただ自分は本は買ったけど読んでなかった,こういうことが結構多いと思う
不思議に今読みかえしてみると理解できるのである。
それで自分なりに引用して文を書いている

現代はそういう環境が調ってはいないか?若い者でも働かないものが膨大にいる
そうしていられるのはやはり豊かだからである。するとその中から独創的な人が出てくるかもしれない,社会性に欠けていても何か別な方で才能を伸ばすかもしれない
ただ天才と狂人は紙一重とういとき結局ニートなどは狂人に終わるのが大半だとなるかもしれない,アウトサイダーになったのはもともと資質的にも優れている故にそうなったのである。自分の場合は資質的には平凡でも社会に適応できなくても環境に恵まれて芸術とか学問を追及できたとなっているだけなのである。
それでもやはり環境に恵まれていると平凡な人でも何か才能が開花することはある
ただベートベンのような天才と比べることはできないのである。
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