2017年10月09日

「青雲の心」の詩-高みへ 都築詠一を思いて・・・


「青雲の心」の詩-高みへ

都築詠一を思いて・・・


高みを目指して
一段一段登る
重き荷をもち
一段一段登る
刻苦勉励
その身を責めて
高みを目指す
青雲の心よ
汝は遂に倒れるとも
その心は高みを目指す
若者よ
志は高く
高みを目指せ
しかし一歩一歩
その石段を登る
明日の一歩にあらず
今日の一歩一歩
それが汝を作る
彼は登っている
死んでも
一歩一歩なおも
険しい山頂を目指して
一歩一歩登る
たゆまず励め
遂に倒れしも
彼はなお登っている
そして天に召される
彼が欲したのは
強い体と強い心
真直なる大和心
あわれみを望まず
病にも弱気にならず
一歩一歩上りつめる
その高みへ
青雲の心よ
高みを目指す
汝は遂に倒れしも
汝の心は生きむ

「心に青雲」の都築詠一氏が死んだことは不思議だった,それはなぜなのか?
フログに書きつづけていてそれを自分が長い間,7年間くらい毎日の読んでいたことにあった,それは本を読むのとは違っていたのである。
こういう経験は今までしていないように思う

本を読むことはある,でもプログを読むのとは違っている,プログは毎日書くものであり読むものだからである。その内容も濃いものがありそれで感じるものがあった
何か空手でも刻苦して自らの身を責めるようにして励んでいた
なぜそうしていたのか?それは都築氏は天才でもないからである。
そんなに努力しなければならなかったというのは天才ではないからである。
だからかえってそういう普通の人に普通の人は共感する,天才だとそんなに努力しなくても簡単にでいるのである。スポーツの世界でもそうである。

都築氏の場合は生来弱かったとかあり家庭に恵まれたとかあり何か自分とにていた
自分も強くなりたいという気持ちが強かった,自分も家庭には恵まれていたからだ
成蹊大学となると今の阿部首相の出た大学であり富裕な坊ちゃん大学だったのだろう。
自分は地方の田舎から三流大学に出て大学の合気道部に一年くらいいた
だから自分はその後もまともに就職もできず底辺をさまよっていた
若いとき相当に苦しんだとなる,集団就職した人と比べると学生生活など楽じゃないかというが自分にとっては結構楽というものでもなかった
カルト教団に入ったりしたのもそうだった,ともかく親元を地方を離れたということが一人前になるのには良かったのである。それまではわがままだったからである。

都築氏については実際は合ってもいないので良くわからない,その著作だってないしプログがだけがその人を知るものだったのである。
ただ死んだというときその人が命をかけて書いていたのかとも思うようになった
17年間透析であり苦しいが弱さを見せず最後まで強気で書き続けていたことを知ったのである。そんなふうにして懸命に書いているとは思わなかったのである。
だいたいネットに書いているのは軽く見られていたからである。
匿名とかも多いし軽く見れることが多い,でもこんなふうにして書いている人もでてきたということである。
プログは毎日書いているからその人の生活の息づかいようなものが感じることがある。
本とは違う,日々の生きる体感のようなものを感じる

この人は空手でこんなに努力しているのだとは感じていた,ただ17年間透析でそんな気力が出せるものなのかと死んだことによって思うようになった。
ともかく彼が最後にプログで自分の人生を命の限り語ったともなる
となるとそれは貴重なものとなった,でも残ったプログの記録は一部である。
ただ毎日読んでいたから何かそうした生きる息づかいのようなものを感じていたのである

同世代でありそれで共感したとういこともあった,同世代で死んでいる人は確かに身近にいる,病気の人もいる,でも都築氏の場合死ぬとは思ってもいなかったのである。
突然死んだとなる,そして永遠に帰らざる人となったのである。
自分は別に深い関係でもなんでもない,ただやはり7年間くらいプログを読み続けていたことが影響していたのである。
プログは毎日読めるものを書ける人はまれである。時々読んだりするが毎日は読まない
それで毎日読んでいたことはやはり知らず影響していたのである。
文芸とかに深い鑑賞力があったのは実際に編集の仕事をしていたことでもわかった
有名な作家でも編集するとなるとそれそうおうの理解力が必要になる
それは相当なハイレベルのものをもっていないとできないからだ

つまり編集というのは鑑賞というのは客観的に見ることでありかえってその本人より作家より深い見方をする場合があるのだ,そして評論は一段上か対等の力量がないとできないのである。だから若い人はまず評論はできないのである。
ただ都築氏の場合その資料となるのものがプログしかないから残念だったとなるのである

高みを目指すというときそれは超人を目指したニーチェが有名である。

生そのものが柱を建ててゆこうとする,生ははるかな遠方に目をそそぎ至福の美を望み見ようとする,そのために生は高みを必要とするのだ
生は登ろうとする,登りながらおのれを乗り越えようとする

われわれはもうあまりに疲れて,死ぬことさえできない,それでわれわれは目覚めたまま生きつづける,---墓穴のなかで
(ツアラストラ-ニーチェ)

彼はやはり一つの超人を目指していたのかもしれない,ただニーチェとかの天才とは違う普通の人であるからそれで普通の自分も共感しているとなる
ただ本当に人間の醜悪さがツアストラによって断罪されたのである。
都築氏もそういうことで有名人でも容赦なく批判していた,でも死んでしまったのである
彼がニーチェとかとは違う,絶えず社会性とかを言っていた,ニーチェとかなると社会から完全に逸脱した人間である。だから狂気にもなったのは当然だとなる
天才だからこそ超人を目指す,しかし超人にはなれず狂気にいたり死んだのである。

ただ人間というものが一体何者なのか?人間を生きるというはどういうことなのか?
それはツアストラの世界となるとそれに合った人間など今は皆無である。
でも詩人がこの地球を歌うとき,詩にするとき雄大なものだからその心も雄大にならないと詩にできないのである。とても弱いものではこの地球を歌いなのである。
そうなるとどうしても社会的なものから逸脱してくるのである。
都築氏にはそういうものはなかった,普通の社会人として生きてきたし生きることを望んだのである。それは天才ではないからである。
天才はやはり巨大なエネルギーがあり社会から逸脱してしまうからである。

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