介護では「早く死んでくれないかな」と誰でも思う
(それは非情ではない,それだけ辛いからである)
2015年1月14日,岩手県の地方紙「胆江日日新聞」の一面に記載された記事に目が釘つけになった,寒い冬90代の母親と介護していた60代の息子が同時に遺体で発見されたという記事である。
単身介護,連鎖の最期最後
頼りの息子自宅で病死 年老いた母も息絶え
(老後親子破産ーNHKシペシャル)
都内在住の主婦・松山綾さん(仮名・39才)に悪性リンパ腫が見つかったのは5年前。
以降、商社勤務の夫と5才の息子と過ごす幸せな毎日は崩れ去った。
「告知されてすぐ入院、手術でした。一命はとりとめたものの、その後に転移がわかり、抗がん剤と放射線治療をして体調が悪化しました。
夫は最初こそ心配して一生懸命に看病してくれましたが、次第に自宅でぐったりする私を見て見ぬふりをするようになりました」(綾さん)
私が家事をできないことにイライラした夫が子供にきつく当たることも増えて、家庭が極端に不安定になり、ある日、夫から離婚を切り出されました」(綾さん)
がん闘病で体力の衰えた綾さんに抵抗する力は残っていなかった。結局、抗がん剤と放射線治療の終了を機に夫婦は離婚を選んだ。
世の中はふたりのような強い絆を持つ夫婦ばかりではない。昨今、冒頭の綾さんのように、どちらかががんを患った夫婦が離婚するケースが増えている。
特に目立つのは、妻ががんを患い、夫から“捨てられる”ケースだ。
介護はきれいごとではすまされない,負担が大きいからそれが愛情がどうのこうのというきれいごとではすまされなくなる,介護している人が夫婦でも親でも早く死んでくれないかなと思うのは普通なのである。
そんな不謹慎なことを言えるなと良く外から他人は言うが介護している本人にすればそう思うことは人間として非情でもなんでもない,人間として普通のことなのである。
そもそも負担が大きいからそうなっているのである。
自分も介護しているとき何度も死んでくれたらな思ってそれを口にも出していた
一人重度の認知症だった,でも意外と早く死んだので助かったというのが本音である。
介護の問題は長くなることなのである。
自分は家族二人を約十年間介護した,一人でも十年介護しているとかめずらしくないのである。その十年は長いのである。そのために自分はエネルギーを吸い取られ奪われて気力を喪失したとなる
何か正常な感覚が失わせるのが介護なのである。
39才とかで妻が癌になり介護となると仕事も何も手につかなくなるかもしれない,介護は24時間であり見守ることでもありエネルギーを費やすのである。
だから夫婦でもそうなると介護することは容易ではない,若いとなるとかえって仕事のこともありそうした障害かある人の介護することはさしつかえる
仕事をすることはやはりその仕事にエネルギーを費やすことである。
でも介護になったら介護する人にエネルギーを費やさざるを得なくなる
それは別に社会的には何も認められない,夫婦だったら当たり前じゃないかとか親子なら当たり前じゃないかとなるだけである。
そして他人はそんな人を見ても無関心である,むしろそれを見て楽しんでいるような人もいる,自分のことでない限り人間は他人の不幸は関係ないのである。
自分の身にふりかかったとき関心をもつようになる
自分も十年介護してきたからこういうことに関心をもつようになったのである。
岩手県の64才で90代の親を介護していて介護する人が病気になり介護された親も死んだのは悲惨である。自分ともにた状況にあった
自分も介護中に病気になり一カ月入院したり手術もした
だから自分もそういう状況とににたことを経験しているのだ
その時何の助けもなかった,むしろ弱者になったことで金の無心をされ盗まれたり脅迫されてきたのである。
岩手県の人の場合は金がなくて苦しんでいた,では金があるから介護になっても安心かとなるとそうでもない,なぜなら自分が経験したようにその金があれば金だけをとろうとしして近づいてくる人が多いからだ
現実に自分はそういう目にあってきたからだ
金だけで人は人を助けないのである。
人を助けるということ愛情をもつということは金があるからとすることは愛情ではない
金が目当てだとすればそれは愛情ではない,家族の関係はそもそもそういうものではなかった
何でも金に換算することはできないのである。
自分の場合は今ふりかかると確かに早く死んでくれないとか思っていた
それでも自分は一番良くされていたから介護するという動機があり愛があった
だからできるかぎり懸命に介護した
でも内心では早く死んでくれないかなと思うことは常にあった
それは別に非情なことではない,そう思うのが介護という負担をかかえたとき人間として普通の感情なのである。それを責めることはできないのである。
関係のない他人だからそう言うのである。
だからいくら家族でも夫婦でも介護は簡単にできない
自分の場合は特殊な家庭環境でそうなったのである。
ただこれが40代とか介護となると自分の人生も奪われたからどうなったかわからない
親を恨むということもあったろう,自分にはそういうことはなくてすんだのは自分はやりたいことをやらせてくれたということでそういうことにはならなかったのである。
40代くらいで介護になったら人生が奪われるから後で恨むということもある
なぜなら人生で一番貴重なのが時間だったからである。
その時間をはとりもどせないからである。
ほんのかたときも母親から目を離すことができない
介護の一番の問題それは正常な感覚を失ってゆく,日々見守り介護する人にエネルギーを費やす,エネルギーが奪われることなのである。
40代とか50代とかだと仕事盛りにもなる,すると社会的にもっとも油がのっているとき介護のためにそのエネルギーが奪われるのは辛いことなのである。
そして介護したからといって社会では何の評価もないのである。そんなの当たり前じゃないかとなるだけである。
芸術家とかでももし絵を描くことに専念して集中して傑作をものにしようとするとき介護とかしていてできなかったらその本人にとっても悔しいし社会的にも損失となる
エンジアとして活躍していた人が親の介護でそうなった人もいる
それは実は社会的損失にもなっていたのである。
岩手県の人は別に息子が変わった人でもない,懸命に介護しながら働いていたのである。田舎で回りにも仲のいい友達とかもいたのである。そういう田舎でもこういうことが起きているのはまず田舎の人がみんな助け合う時代ではなくなった,それより人間はそうした病人とか介護しているとかになると寄りつかなくなる,それはなぜか?
負担を課せられることが嫌なのである。そういう家にいくことは暗黙の内に負担を強いられるからである。だからよりつかなくなるのである。
そして息子の場合は女性とちがって外部に訴えないし仲間を作ることができない
男としての意地があったりと不利なのである。だからSOSを発信しなかったから回りの人はそんなに困っていたことがわからなかったのである。
その女性は困っていると常に困った困ったと訴える,それで嫌だけで金を与える
男だったらあんなふうに嘆願しにくいだろう。プライドがあるからできないだろう。
事業に失敗した人が金を上から目線で命令するように金を要求してきたのは自分が弱者と化していたからできたのである。
「お前世話してやるから金をだせ」と実際になっていたのである。
その人も金に困っていたからもう相手を思う気持ちも何もないのである。
追い詰められていた人間は人を思うことすらできない余裕がないからである。
自分の所に来たのはそういう人達ばかりだったのである。
いづれにしろこれから介護問題ではこういう事件がもっと起きてくる
日常的に起きてくる,それだけ介護の問題は深刻なのである。
その解決方法は簡単にはない,だから早く死んでくれたらなというのは別に非情なことではないのである。早く死んでくれると楽になるからだ
そうでなければ延々と負担がありその苦しみから解放されないからである。
自分も最近介護が終わって何か正常な感覚がもどってきたなとも思う
でもやはり介護で費やされたエネルギーは大きく回復しないということもある
それはもう年だからということもある,だから自分の場合は親を恨んだりもしない
かえって一面一番良くされたから恩返しできて良かったなとも思っている
親が残してくれ財産がありまた生活には困らないからである。
会社勤めもせず楽に過ごして老後も今は金の面では困らないのである。
例えば十年間保険をかけていて一カ月4万をもらっていた,それは今年で終わるが
金の面では自分は恵まれていたのである。ただ家族では親戚もいないから助けるものがいないから苦労したしこれからも苦労する
ただ人間はあらゆるものが満たされる人などいないのである。
金があるからとすべてがまかなえるわけでもないのである。
人間の一生をふりかえれば
人間は必ず負の部分を背負うことになる
人間いいことばかりではない,結婚してもそうだし何にしろ負の部分がある
その負の部分を負ってこそ絆が生まれたり愛情が深まったりもする
ただそう言われても現実問題となると人間は耐えられなくなるのである。
結婚式でも「苦しいとき悲しいときも助け合いとか・・・」誓っても現実に妻が癌になったとかなると離婚する男性が多いのも現実だとなる
その負の部分を負うことができなくなるからである。
それを責めることもできない,だから「早く死んでくれないかな」というのは誰でも思うことだしそれが非情だとは責められないのである。
ただそういう男性が後で後悔することもある,そういう男性は誰と結婚してもそういう人であるとしたら男性でも女性でも
結婚とは互いの利益と欲でしているだけなのかとなるからだ
人間の問題は老人になってから見るのと若いときの見方が違ってくる
それで人間はみんな後悔しているからである。
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寝たきりでただ食って寝て、そんな形で生きていたって何のねうちもないし可哀そうなだけ。
それだけの生ではないのかと、みつめつつやがて自分もおいつめられていく。
こういう自分が求めていたのは、決して介護論でも心理学でも福祉設備の充実だけではないのです。
なぜ生きているのか、それをつきつめればなぜ宇宙に生命があるのかという問いを問うところへゆくのです。
その問いの前で、介護していた自分はまさに宇宙論に直面していたのです。
すべてを問う、宇宙論が切実に欲しかったのです。
介護には家族とか人それぞれの事情が深くかかわっている
家族の歴史すらかかわっている
それぞれの家族のカルマもかかわっている
それは他者か見てわかりえようがないのです
あなたは私の家族の事情をどれだたけ知っていますか?
他の家族の事情をどれだけ知っているすか?
家族はみんな同じではないですよ
みんな複雑な事情をかかえていますよ
家族の不幸はみんな違っているのです
あなたは「宇宙論」などもちだして何を言いたいのですか?
あなたは自分の家族を介護していないからそもそも何もわからない
「宇宙論」など何の関係もないですよ
人間は実際に経験したリアリティが訴えるのです
家族を介護しないものにはわからないです
家族によって違いますが家族は愛で結ばれているのです
あなたは経験もないし何も介護については知らないのです
都築詠一氏はそんなことを言っていましたが彼には彼の人生の経験から言っていたのですだから自分はそんなふうになりたくない,介護されたくないと言って最期まで強気で死んだのは筋が通っていたのです
でも介護とかで人生の問題は個々に違ってくるのです
あなたは自分の家族のことを何もしらないからそんな簡単にかたづけられるのです
あなたがもし愛する家族が介護状態になったらそんな態度がとれなくなりますよ
そこに介護なんか無駄だということでかたづけられないむずかしさがあるのです
だからこそ経験しないものは何もわからないのです
辛いです。
2人を見て10年です。
うんざり
>みったpさん
>
>私も自分の両親が死ねばいいいと思って毎日います。
>辛いです。
>2人を見て10年です。
>うんざり
>
私も約十年でした
これは長いですよ
十年一昔ですから
もっと長い人もいます
この長さにまいってしまう人はいる
その後死にましたが死んだ後でもなかなか気力回復できなかった
とにかく介護の負担は経験しない人でないとわからないですね