2017年10月25日

認知症の人の対処方法 (プライドを維持させる)


認知症の人の対処方法

(プライドを維持させる)

認知症の人を介護して何か謎が残った,一体何が病気なのかわからなかった
ふりかえると

認知症の人は痴呆になったわけではない

痴呆になったとしたら人間として扱いないという恐怖になる
それがなぜ恐怖になるかというと家族だからであり家族として尽くしてきたし長く一緒にいたからであり愛し合う関係でもあったからだ
それが人間ではなくなるということは恐怖である。
そういうことを一時思ったから恐怖だった,気がふれたのかともなる
そうなると人間として接することができなくなる
親であり兄弟とかそうなったら恐怖でありショックである。

ただふりかえると認知症の症状は人によって違うから一概には言えない
自分の経験では認知症の人は何もかも人間としてわからなくなるとは限らない

認知症の人は最期まで強いプライドをもっている

認知症の人の最大の特徴というべきものがプライドを強くもっている
それは死ぬまで消えない,自分が何をしてきたか,その家族でどういう役割を果たしたかそういう自負をもっている,だから忘れるという症状があるとしてもそれを馬鹿にすると怒るし暴力にもな
今までのように親として普通の人として扱ってもらいたいとなる
軽い精神障害の人も普通の人と同じように扱ってもらいたいと言っている
ただ生まれつき精神障害の人と認知症の人はどこが違うのか?

認知症になっても自分がしたことにプライドをもっているから軽蔑したりすると怒り暴力になる,つまり忘れるとういことでその人格が異常として否定されると怒るのである。
それで扱いがむずかしくなるのである。
だから演技しておだてるといい気分になり症状が良くなることはある
ただ演技してもその人に対して家族でどう思うかが問題になる
例え認知症になってもその人を功労者として扱えば満足するのである。
自分の家ではそういうことがあったので今まで同じように家で持ち上げていたのである。そのために犠牲があったのだがそれも二年間くらいで終わったから助かったとなる
長くなるとそういうこともつづかなくったろう。

ともかく認知症になったとき家族でもその人のプライドを維持させることができるのかがかなり重要な問題にな,施設ではなかなかそれができないから症状が悪くなるかもしれない。その人のことと家族でもないからそんな扱いはできないとなる
自分の家で家族が犠牲になったがしかたのないことだった
それはやはり家にも自分にも尽くしてくれた人だったからである。

ただみんながそうなるかとなるとならない,別に認知症にならなくてもひどい親がいてそのために苦しんだ子供は親のことなど恨んだりさえしているからだ
毒親は子供はめんどうみない,死んでからも墓参りもしないとまでなる
だから認知症になったりしたら無惨なものになる
それも結局カルマだともなる
やっぱり日頃の行いが人間は大事になる,そして人間は突然良くなったりしない
日頃の積み重ねで人間は作られてゆくからである。
だから原発事故で避難した人達でも日頃ちゃんと仕事していた人は避難先でも仕事しているということがある,大工などはそうである。
人間はそもそも老人になって何かすぐに新しいことはできない,日頃していたことならできるのである。
認知症の人でも今までしてきたことはできるのである。

そして認知症の不可解なことは

正気にもどる時がある

これは不思議である。一人は最期に自分のことをわかってくれてうなづいて死んだ,その時言葉がなかったが何か察して死んだのである。
もう一人は最期に

孫に金をやれと大きな声を張り上げて言った

それは死んだときから一カ月前のことだった。その時まで金に無頓着になっていた,金のことがわからないと思っていたのだ
正常なときは金にこまかくこだわっていた人だったからである。
大金を盗まれても笑っていたから驚いたのである。
まず一円にもこだわり働きためるだけの人生だったからだ
それが金額まで指定して金を払いと大きな声を張り上げたのでびっくりしたのである。
だからとにかくその約束は守ることにした
最期に遺言のように言い残した言葉は重いし怖いと思った

認知症は不可解であるが完全に痴呆になった,人間でなくなった,何もわからないとはならない,それで扱いが余計にむずかしくなる
だからよほどの動機がないと介護しにくいとなる,それが施設では介護する動機がないからさらに]むずかしくなることもある,ただ施設で症状が良くなった人もあるからいちがいには言えない

結局これも日頃の生き方が最期も認知症になっても影響するのである。
だから日頃から家族でも尽くしていないと子供でも認知症になったら余計に見放されてしまうのである。
ただ正直認知症の介護はそうはいってもこんなふうには普通はできないだろう。
あまりにも負担が大きすぎるのである。自分も最後は鬱病になったし限界だったからだてある。ただ意外と早く死んだので救われたのである。
やはり人間は死ぬときに死なないと自分自身も家族にも社会にもただ迷惑かけてやっかいな奴が死んでくれて助かったとなってしまうだろ。
そうしてまで生きることは子供にも恨まれるとまでなるのが認知症だとな

2025年段階で認知症患者だけでなんと800万人を超えると推計され、都市が徘徊する人であふれるという“認知症パンデミック”が起きるという懸念も示されています。

この数字は恐怖である,イギリスでは認知症の患者が減った,

「心臓病の治療、心血管リスクの予防、減塩」です。心臓病の治療が認知症の予防に繋がるという標語をつくり、禁煙キャンペーンを展開し、業界団体にも協力を仰いで10%の減塩を実現したのです。

これもわからないにしろまず90すぎたら半分は認知症になる,90以上生きる人が多くなれば当然その半分は認知症になるのである。それはどうにもならないのである。
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