秋も終わる?(俳句十句)
(俳句は単純でも深い読みで鑑賞するもの)
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加工はしたけどやはり写真が基本である。
どういうふうに撮るかが問題である。
ここで木を写真の中に入れたことで活きた
乳母車の母と子はねらってとった
こういうふうに変化するのを写真にとるのはむずかしい
隠れてなんとか気づかれないようにとった
川上の巌の硬く水澄みぬ
晩菊や牛数頭のここにいる
卵生み鮭の命の尽きにけり
一区画畑の手入れや秋の暮
誰が座る公園のベンチ落葉かな
労務者や仮設のプレハブ秋あざみ
灯のともり空き地にかすか残る虫
晩年に秋夕焼けの色の濃し
帰るとて待つ人なしや冬の来る
田舎駅遠くの人や曇る月
俳句は短いからむしろ鑑賞する方が深い読みをしないと鑑賞できない
「川上の巌の硬く水澄みぬ」この句などなんなのだろうとなる
自分の場合,石と巌とかテーマにしてきた
石でも巌でも山でもそこで人間化する,巌が硬いというとき穢れをよせつけない
真実の巌となりそこに水が澄むのである。
一見単純でもそこに深さがある,ただそれを読み取るのがむずかしいのである。
「晩菊や牛数頭のここにいる」この句でも本当にあまりにも単純なものでありこれが俳句なのかともなる,ただ晩菊屋か咲いていた,そこに牛がいたというだけだからである。
でもこの単純さの中に俳句が活きている,単純だから活きている
今日は原町の歯医者に行ってきた,原町には買い物があり行く,必ずパンを買う,それは鹿島では売っていないからだ,それで困っている,相馬市にもパン専門店がある,焼きたてのパンを売っている,自分はパンは好きな方であり朝はパンを食べている,簡単であり楽だからパンにしていることもある
原町だとまだ近いから自転車で行けるが相馬市となるとなかなか行けなくなった
道の駅に公園がありベンチがある,何かそのベンチには人が座る,でも原町だとまだ都会であり人が往来するから結構人が座るかもしれない,鹿島とかになると公園があってもほとんど利用されていないのである。
あそこの公園は子供でも外からの人も利用しているのである。結構にぎやかな場なのである。だから公園らしいともなる
今日は秋夕焼けが美しかった,秋夕焼けの色はまた独特である。晩年は秋夕焼けがふさこわしい,ただもう冬が来る,今年の天気は変則的だった,秋が来たと思ったら冬のようになりまた秋になりとか季節感がまともではない,だから俳句の季語もうまく使いないのである。
月がでているけど雲にかかり光っている,一応月は出ている,微かに虫の音も聞いた
でも秋も終わりなのか?まだそうでもない,これからが紅葉なのだろう。
立冬は11月8日頃(2017年は11月7日)とあるからやはり冬なのである。
ただ何か秋が普通は長く感じられて晩菊とかの季語があったのである。
それが短く感じられるから季節感が狂ってしまった
今日は月も出て光っているが雲がかかったりしている,駅に遠くから来た人は一時出会う知らない人である。だからこそ気楽にちょっと話して去る,でも何か駅にはそうして外部の人が何かを残してゆくというのは確かである。
駅は何か本当は人間臭い場所なのである。人間が出会い別れる場所でもあるからだ
ただ今はスマホを見てそればかりに集中している人が多くなった
あれはその場の雰囲気を味わうことがない,人との出会いもなく,ただスマホばかり見ているのは何か感覚的にも残るものがなくなる,便利なのことは確かだがスマホだけでは
本当の情報には接しられない,なぜなら情報とは情に報いることだからである。
情報は情を通じ合わせることなのである。それは一時の出会いでもそうであり道を教えたりしてもそうなのである。そこで見知らぬ人でも情を通わすのである。
ただ自分も旅のときそういうことをしていない,何か旅だと次がどこに行くとなりその次の旅先に心が向いて落ち着かないからだったかもしれない,迎える方になると落ち着いているし余裕があるから話しかけたり自分がしているのだと思う
いづれにしろ家には誰も待つ人がいないのも淋しい,それが何なのかまだ良くわからないつまりそういう一人の経験をしていないからである。
家に家族がいないことはそれが家なのかという疑問が常にあった
家とは何なのか?ハウスとなると建物のことでありホームとなるとそうではない
そこには何かあたたかく迎える人がいる,それがなくなったときハウスがあってホーム
がなくなってしまったのかもしれない,ホームは人間の帰るべき場所だがハウスはただの建物なのである。だからそこはホームではない,つまり自分にはホームがなくなってしまったのである。
でも本当にホームがあったのかとなるとそれも疑問だった,今家族も冷たいという人も多くなった,この世に本当にホームがあるのか?キリスト教では天国にしかホームはないのである。この世は異邦人としてありこの世がホームになりえないのだ
家族だって愛がない家族だってあるからだ,そこがホームとはなりえないのである。
ただ自分には理想的ではないにしろホームがあった,待つ人がいたのである。
それがいなくなったとき家はただのハウスであり建物である
それでも家があるというだけでもいいとかなる
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