南相馬市鹿島区川子の御堂の墓の謎
(明和だから天明の飢饉の前のものだった)
荒井山広徳院宝持寺 北森山にあり,天明の頃,寺廃す
故に塩崎村田中山慈伝院に合す:文政六年慈伝院を江垂村普陀落山観音寺に合す
(鹿島町誌)
元禄宝永中戸数四十,三十八戸 天明三二十二戸 同年 戸数十六戸
慶長けいちょう1596.10.27〜1615.7.12
元和げんな1615.7.13〜1624.2.29 元和偃武
寛永かんえい1624.2.30〜1644.12.15 寛永寺 寛永通宝
正保しょうほう1644.12.16〜1648.2.14
慶安けいあん1648.2.15〜1652.9.17 慶安の変
承応じょうおう1652.9.18〜1655.4.12
明暦めいれき1655.4.13〜1658.7.22 明暦の大火
万治まんじ1658.7.23〜1661.4.24
寛文かんぶん1661.4.25〜1673.9.20
延宝えんぽう1673.9.21〜1681.9.28
天和てんな1681.9.29〜1684.2.20 ※辛酉革命
貞享じょうきょう1684.2.21〜1688.9.29.
元禄げんろく1688.9.30〜1704.3.12
宝永ほうえい1704.3.13〜1711.4.24
正徳しょうとく1711.4.25〜1716.6.21
享保きょうほう1716.6.22〜1736.4.27 享保の改革
元文げんぶん1736.4.28〜1741.2.26
寛保かんぽう1741.2.27〜1744.2.20
延享えんきょう1744.2.21〜1748.7.11
寛延かんえん1748.7.12〜1751.10.26
宝暦ほうれき1751.10.27〜1764.6.1 宝暦事件
明和めいわ1764.6.2〜1772.11.15
安永あんえい1772.11.16〜1781.4.1
天明てんめい1781.4.2〜1789.1.24 天明の大飢饉
寛政かんせい1789.1.25〜1801.2.4 寛政の改革
享和きょうわ1801.2.5〜1804.2.10
文化ぶんか1804.2.11〜1818.4.21
文政ぶんせい1818.4.22〜1830.12.9
天保てんぽう1830.12.10〜1844.12.1 天保の改革
川子の御堂の由来は何なのか?あの御堂には何を祭っているのかもわからない
鹿島町誌にある寺があったところなのか?
その僧侶の戒名が記されていてそれが明和となっている
明和というと天明より前である。天明の飢饉より前に寺があったのか?
天明の頃に廃したとあるのは飢饉で寺が成り立たなくなったのか?
そういうことはありうる
天明になり戸数が半分以下になっている,それは相馬藩では共通している,だいたい半分に戸数は減ったのである。そうなると寺を維持できなくなり廃した
そして塩崎村の田中山慈伝院に合したとなる,その後は江垂の寺に合した
ということはこれは天明の飢饉が関係してこうなったのか?
ただここには寺があり僧侶の戒名が記されているが天明の飢饉の前に死んだのである。
ただその後にその寺はなくなり墓だけが残ったともなる
川子というとき何か村としては小さいし由緒がはっきりしない,大内村には館という地名があり中世からあった,真野の江垂は中館がありここはこの辺では南北朝の争いで霊山が炎上して逃れた武士が住み着いたことで知られている
塩崎村とか川子村はその中館から分村したものとなるだろう。
地形的にもおそらく前は丘陵になっている前は湿地帯であり津浪で塩水に浸り塩崎まで船着まで津浪が来たことには驚いたのである。この辺では低い場所だったのである。
塩崎と船着とかいうことが津浪で現実にそこまで海だったことが証明されたのである。
八龍神社は高い所にある,烏崎でも高いところにあり津浪でぎりぎりで社が残ったのである。あれも本当に不思議だった,八龍神社があれば相当に古いのだと思う
鎌倉時代に普及した水を司る神だからである。
川子には五賀とかの姓の人がいる,右田にもいた,それは古閑(こが)であり越中の人である,人か住んでないな荒地の意味である。
越中とかからは天明の飢饉で移住した人が相当数いる,墓地を見れば本当に多い,真宗だから南無阿弥陀佛となるからである。三分の一くらいがその墓になっているとき江戸時代からその子孫が相馬藩内に住んだのである。
そういう移民は相馬藩内でも悪い土地を与えられた,だから開墾するのに苦労したのである。ただどこにでも真宗系統の移民がいるから川子が多いというわけではない,散らばって相馬藩内に入った,ただそこは土地としてはいい場所ではなかったのである。
ただあそこに明和の碑が墓があったことは意外だった,まず天明より前だとこの辺では相当に古いとなるからだ,他の碑もみてみたが字がわからない,不明になった碑も墓も多いのである。
タグ:川子
【江戸時代の最新記事】
- 原町区上高平の春 (相馬藩の越中な..
- 文久元年ある城下町の一年(鈴木清著)を読..
- 橲原(じさばら)の山神社から堰を訪ねる ..
- 相馬焼きの歴史 (縄文土器から始ま..
- 大工から棟梁へー建築の歴史 (人間..
- 江戸は大消費地ー働かない侍が50万人 ..
- 相馬藩では郷士が多いから兵農分離されなか..
- 「相馬藩寛文8年百姓一揆の歴史的意義ー鈴..
- (冬の城下町)相馬市が城下町であったこと..
- 相馬藩への越中加賀などからの真宗移民はな..
- 元禄時代の新田開発された場所は水害を受け..
- 相馬市新田寺田に元禄の碑 (松川浦に接し..
- 相馬市日下石や柏アや磯部の歴史 (..
- 江戸時代の飢饉の歴史 (歴史の闇に..
- 南相馬市原町区の大谷(おおがい)村の由来..
- 南相馬市の鹿島区の隠町(かくれまち)の地..
- 本当はブラックな江戸時代 (戦後十..
- 老人の性にあうもの (時代劇を見..
- なぜ人は移住するのか? (深野の佐..
- 下北高平の広い土地の家が壊されていた ..