2008年08月20日

昔の山の暮らし(馬を飼う牧として利用されていた)

昔の山の暮らし(馬を飼う牧として利用されていた)

夏厩(なつまや)も焼畑地名です。夏厩は、夏の間に山間の傾斜を焼いて畑を開いたり、馬を飼うことによります。(岐阜県地理地名事典) ただし、斐太後風土記の夏厩の項では、夏草を乾燥させて冬の馬の餌(稗糠や稗殻)に混ぜたことに因むといいます。その厩の堆肥を田畑に用いると、穀物が豊熟したので他村から羨ましがられ夏厩村となったと記してあります。また、六厩の人に聞いてみると、岡田長者が夏になると馬を放牧した場所が夏厩とされます。http://www2.ocn.ne.jp/~ynhida/yamagatari/katari/hiyama.htm

上松町の古老は、「蚕のコナクソ(糞)とウマの肥えがいっぱいあって(かぶが)よく穫れた」「ナバタ(菜畑)焼いて木灰つくって連作もできたんだ」と回想する

http://www.tkfd.or.jp/research/sub1.php?id=28

山ゆり、鬼ゆり、小鬼ゆり等は食用部分は煮たりあるいは蒸したりして用い、また澱粉を採取する。

葛巻(くずまき)町

由来
(1)「葛牧」で葛(クズ)の生えた牧場 
(2)「葛蒔」で傾斜地を崩し蒔きした焼畑のこと



農民にとっては、林の下草を刈り取って、馬の飼料や、馬に踏ませて肥料とすること

豊津国民学校では夏休みの作業ノルマとして、軍用馬の飼料になる干し草一貫目を刈り取ってくることが、僕達生徒一人一人に課せられました。土手や空き地に生えている軟らかい雑草を刈り取り、カラカラになるまで天日に干し、縄で縛ってつくった干し草一貫目の束を夏休み中に学校まで持っていくのです
http://www2s.biglobe.ne.jp/~youta/youta14.htm


高遠山は江戸時代末期から木祖村、塩沢などの集落の入会山で、木曽馬の飼料にする草刈りの山だった。近代までは全山青々した草原の山で、地元小学校の遠足や山菜採りに訪れていたと言う、が、木曽馬を飼わなくなった昭和三十年代、草刈り山としての使命が終わり、今ではカラマツが植林されている。
http://www.naganoken.jp/mount/kiso/toriitoge/takatoyama.htm

牛や馬はハギを食う。この荳科(まめか)の植物がよほど好きと見えて牛や馬の飼料に部落の人たちはハギを刈って山のようにかついでゆく。ハギは山野に生いしげるが、ここのはいわゆるヤマハギで赤の色がややうすい
http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/43782_25641.html

山の暮らしは今では忘れられている。昔の生活は基本的には自給自足だからすべて近くにあるものでまかなわねばならない、山の暮らしもそうである。特に交通が発達していないから近くの山が大事になり入会権がいたるところにできて入山を制限した。そこに境木とか境が常にいたるところに設定されたのだ。家は茅葺きだから萱も不可欠であり屋根にするには大量の萱が必要であり萱場という地名などが残された。そして意外と忘れられているのが馬の利用が盛んだった。農家でも農耕馬用に一軒に一疋の馬を飼っていた。馬を今なら車と同じだったのだ。車の燃料はガソリンだが馬の燃料は秣(まぐさ)とか稗とか近くにあるものでまかなうことができた。ガソリンは外国から輸入せねばならないが馬の燃料は身の回りで供給できたのである。山は牧場に牧として使われていた。

umama1.jpg

明治三年の飯館村史の比曽村人別帳でも家族の人数は10人から5人で馬は一疋ではない、必ず二匹以上は飼われている。家族の人数が多くなれば10人で五疋とか六疋にもなる。飯館村全体で一六〇〇頭もいたとなると相当な馬の数である。葛尾も長野県の葛尾城から逃れてきたから葛尾としたが葛はやはり焼畑地名に由来していて馬の牧にもなっていたのである。葛尾も名馬を産する地として有名だった。飯館、葛尾などは野馬追いに供給する馬の放牧地ともなっていた。農家では二所帯同居でありここではその他に五男は二二才だから確実に労働力となっていたし十六才の六男でも労働力になっていた。農家だけだと労働力がかなり必要だったのだ。ただ一家にしてもその跡を継ぐにしても五男六男とあるからもし地元に残るとすると田畑が土地が必要となる。それで葛尾村の野川に六良田(六郎田)などを作らせて分家させたともなる。この一家で注意せねばならないのは五男六男四男はいるが三男次男はいない、五女がいてその他がいない、他の一家でもそういうのが多いのは三男四男次男などが早死にしたのかもしれない、五女でもその他の四女三女なども早死にしたのかもしれない、昔は半分くらい子供が早死にしているのがふつうだからである。馬も昔は家族の一員であった。今はペットが家族の一員であり介護までして墓も作り供養しているのと同じである。子供のとき隣が農家で馬を飼っていた。その馬小屋の上で遊んだことがある。馬は身近に存在していたのだ。今でも中国辺りでは馬が荷物を運ぶものとして利用されている。北京の市街までスイカなどを売りにきているのは不思議である。

外国だと昔の生活がそっくり残っていることがあり日本の昔に帰ったような気分になることがある。特にアジアではまだまだ昔の生活そのままに生活している人が多いのである。カンボジア辺りでは水牛を飼い高床式の家で生活しているからまるで日本の古代の生活だった。でも日本だって山で電灯がついたのは戦後まもなくだったり水道もない生活だったりこれほど便利になったのはここ五〇年くらいのことだったのだ。ここ五〇年の変化が激しかったのだ。私の子供時代の十年は燃料も炭だったし自給自足が生活の基本だったのだ。それで馬の糞が肥料になっていたというのもそのためである。インドでは牛の糞は干されて燃料になっている。これはベナレスのような大都会でもそうなのである。日本の昔を知りたかったから外国に行けば具体的に昔がそのまま残っていることに驚く、私の家では店をやっていたが新聞紙でバラ売りの菓子などを売る袋を作っていた。それがインドのバラックのような店でも新聞紙の袋だった。新聞紙でトイレの紙にしたりいろいろ再利用があったごとく馬の糞も肥料として貴重だったとなる。ガソリンの高騰があるが石油の生活は相当な贅沢でありその贅沢なものに頼ると今度は逆に石油が高騰したりなくなると生活がなりたたなくなる。トウモロコシから燃料を作るとか無理がでてくるし世界的な食糧不足にもなる。人間の問題は一旦贅沢な生活をするとそこからぬけきれない、質素な生活をすることがむずかしくなる。でも贅沢な生活を維持しようとするとその代償は高くすつことにもなる。


posted by 老鶯 at 10:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 江戸時代
この記事へのコメント
はじめまして。
自分の家系を調べる過程で、よく小林様のHPやプログを目にする機会があります。
ここに書かれている独自の持論がとても面白く、またその博識に感心してしまい、訪問するたびに、ついつい長居してしまいます。
これからも頑張ってくださいね。応援してます

追伸:HPに我が家の近くの写真が数枚ありました。(どれかは秘密です)
素敵に撮れていたので嬉しくなってしまいました。


Posted by アウト at 2008年08月22日 17:08
コメントとどうも

相馬だと狭いからこういうことあると思いました。
郷土史でも自分の家ことをあまりにあからさまに書けないことが問題です
いろいろ詮索されると困るからです
でも家系など書けばその家のことわかってしまいます。
でも郷土史は個々の家自体が一つの郷土史になっている。
個々人の歴史が郷土史になっている
地域が狭くても幅が広いんです
だから郷土史の共同研究をどうすすめていくか
全国レベルだと郷土史研究はインタ−ネットでは調べられる
地元ではプログなど書いている人は少ない
そこが問題です

日立木の立谷氏について書いていたプログは参考になりましたけど・・・・

これからも相馬内の情報の掘り起こしを重ねてゆきますのでよろしく・・・
Posted by 老媼 at 2008年08月25日 09:33
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