死者は面影となり生きる(古典の短歌を読む)
●万葉集の恋は死者を思い面影に見ること
陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを
夕されば物思ひまさる見し人の言とふ姿面影にして
たち変り月重なりて逢はねどもさね忘らえず面影にして
里遠み恋わびにけりまそ鏡面影去らず夢に見えこそ
遠くあれば姿は見えず常のごと妹が笑まひは面影にして
年も経ず帰り来なむと朝影に待つらむ妹し面影に見ゆ
右大将道房の死後、手習いをしていた扇を見付け詠む 土御門右大臣
てすさびのはかなきあととみしかども ながき形見と成りにけるかな
(手慰みの筆の跡と思って見ていたけれど、永久の形見と成ってしまった)
面(かお)とは顔のことである。不思議と顔が浮かんでくる,死者だと余計にそうなる
それで折口信夫は
折口信夫は、「恋」とは昔相手の「霊魂を迎え招く」ことだったと言っている(「恋及び恋歌)。「恋」とはもと「魂()ごひ」だったというのである
万葉集の恋は今の恋愛ではない,死者を乞う(こう)儀式ですらあった
だから実際は死者に関するのだから深刻なものであり恋愛とは違ったものとして恋があった,死者はなんらかでそうした面影として残されたものに映る
それは遠い所に人がされば面影に見る,それは死者を思うのとにている
ただ死者は絶対にもう会うことができないのだから深刻なものとして恋がある
真野の草原の歌は真野の草原(かやはら)という遠い地に恋する人が行ったとしても面影に見えますよということである。草原(かやはら)のことではなかった
真野の草原は遠い地として奈良の人に知られていたのである。
たち変り月重なりて逢はねどもさね忘らえず面影にして
これは死者のことかもしれない,死者は存在しなけど面影として存在し続ける
そう読めばただの恋愛ではない,深いものとして鑑賞できる
てすさびのはかなきあととみしかども ながき形見と成りにけるかな
こういうことは家族で死んでみるとわかる,こんなものが形見となって死んでしまったなということを感じる人が多い
何かありふれたつまらない日常だったことが貴重な思い出として蘇るのである。
面影として現れるのである。人間が死んで残るのはその人の思い出であり面影なのであるそれはなかなか消えないものなのである。
湯たんぽにストーブにあたたむ湯を入れぬその時姉ありあたたかきかな
我が家になお姉母ありて支えなむ今年は特に寒くなりしも
死してなお我によりくるもののけは姉母にしもありと思いぬ
ものしずか母なりし今日も寒しきも庭の石にし面影残る
常に湯たんぽにストーブであたためた湯を入れるとき太った姉が常にそこにいたのであるそれがなんでないが寒いとき姉は太っていたから湯たんぽでも温かく感じていたことを思い出したのである。
そんなときそのことに特別な思いはなかった,でも死んでみたらいつも姉がそこに笑って湯たんぽに湯を入れるのを見守ってくれたとかなる,湯も入れてくれていたのかもしれない。ともかく姉が湯たんぽの湯を入れるときそこにいつもいたことを思い出したのである何か今年は特に寒いからそんなことを思い出すのである。
もののけというとき物につく霊とかなる,この物の怪は悪いものとして憑依するものとしての霊とある,でもそれだけではなく良い霊として死者が自然物に憑くということもある石についたりもする,死者が石と一体化して伝説の石となる
それはもう単なる石ではない,完全に死者と一体となった石だとなる
死者がもののけとなり悪い霊としてつくとは限らないと思う
何か家には死者の霊がもののけとして憑いている感じになるのだ
それは悪い霊ではない,長く住んだ家から離れられずついているともなるのだ
死者はだから骨になり灰になっても消えたとはならない
何かむしろ物の怪となって長年あった場所に憑いているともなる
ものしずか母なりし今日も寒しきも庭の石にし面影残る
ものしずかな母だったというとき自分もそうだった,だから外交的な人には好かれない
外交的な人は好かれやすい,表に現れるからである。
内向的な人は表に現さない,隠忍自重している,だから石にふさわしいとなる
ただ死んでみるとそうして目立たないものが何かいつまでも残る,存在し続けるということも感じた,外交的な人には人のいい面はあるがそれがすべて表にでてでしゃばりになるのが欠点にもなる,ただ外交的とか内向的とかあってもどっちにもいい面と悪い面だしそれは悪い面もいい面となる,その両方を兼ね備えればいいのだが人間はそうなっていないのである。
正直内向的な性格は社会では損する,外交的な人が好まれているからだ
実際母はとても一人で家を切り盛りできない女性だった,何か社会のことがわからないからだ,自分もその血を受け継いでいるのである。
人間はつくづくなにもかも兼ね備えることがないから補い合うようにできているのである社会自体がそうして支えあっているのである。
●埋火の俳句より死者を思う
埋火や壁には客の影ぼうし 芭蕉
埋火やありとは見えて母の側(そば)蕪村
歳時記によっては初めが「埋火の」となっていますが、「埋火があるように感じられたが、母親のそばのぬくもりだった」という意味で・・・
この句も炭の時代だからこそできた句である。今はこういうことはない,エアコンとか部屋をあたたかくしてんるから何か寒々として感覚はなくなった
寒いということがないことは風流もないとなる,ただ寒いを風流と感じるのは体に自信があればそうなる,寒いとしても余裕として感じられるとなるからだ
江戸時代は裸足だったということが驚きである,女性も裸足であり靴下を冬でもはいていないのである。そんな寒い所で良く裸足でいられたと思うのも時代である。
芭蕉の句は埋火(うづび)ではそうした人の余韻を残す,それが絵画的に示されている
それは死者ではないがやはり人が去ったあとで死者ともにている
蕪村の句は本当に死者なのである。母がいつもそこにある,ぽかぽかとあたためるように母があるという感覚になる
自分には複雑な家庭でそういうことはないが母が死んでから何か母がいつも近くにいるという感覚になったのは不思議である。母のことは生きているときそんなに自分は思っていなかったからである。
つまり母が死んでからそうなった,死んでしまうと人間の見方は生前と変わってくることは確かなのである。つまり生きているときでも喧嘩していても長くあっていないと喧嘩した相手でもなつかしくなるのとにているのである。
埋火と死者
死者はなかなか消えない
埋火のように
とろとろと燃えて
消えるようで消えない
消えたと思うとまた現れる
死者はいつも身近にいるのかもしれぬ
とろとろと燃える埋火のように
あたたかく母のようにいるかもしれぬ
それは母だけではない
何かそうして愛すべき
親しい人は死んでもいるのかもしれぬ
死者はもう己を強く主張しない
でも埋火のようにいつまでも燃えている
長い歳月を共に暮らしたゆえに
死んでもやはり何かありつづけるのが死者
死者はただ残された人の心に
面影のみとして写る
その面影はなかなか消えない
埋火のようにいつまでもとろとろと燃えている
今年は特に寒い
だから火が恋しいくてまた死者の面影を偲ぶ
埋火
死者を思う時こういう感覚なのかもしれない,死者自体が埋火のような感覚になる
死者は生きている時のように騒がしいものではなく現れるかもしれない
死者は何か激しく怒ったりはしないだろう。とろとろ消えないで燃えている埋火とにているのだ。埋火のようになかなかその火は強くはないが消えないのである。
炭の時代を子供のときに経験している,それは貴重な経験だったのである。
炭のことを知っている世代はもう団塊の世代のあとはいなくなったからである。
埋火の文は老人問題に書いたがこちらにも移して一つの文にした
またここに文を加えることにもなるかもしれない
こういうことは電子空間では簡単にできる,常に加筆したり変えたりするのが手間にならないのである。だから絶えず更新してゆくのがインターネットの電子空間なのである。こ
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