2017年12月18日

冬の暮俳句十句 (家の考察-家は自然空間を模したものとしてもある)


冬の暮俳句十句

(家の考察-家は自然空間を模したものとしてもある)


冬の暮六万石の城下かな

五本松残る三本冬の暮

乱れじや物音もせず冬日没る

石一つ村の境や冬の暮

故郷の古りにし家や冬の暮

冬の暮我が眠るは奥座敷

我が家を一人守りて冬の暮

古き家に昔を思い冬の暮

古き家や昔を想うスト-ブの火

もの言わぬ岩の重みや冬深む

奥深く岩の動かず冬の暮

冬深む奥処に岩の鎮まりぬ


半年くらい相馬市には自転車で行っていない,道の駅のところの五本松の二本の松は枯れた,松は何か一番人間に親しい,人間に見えるのである。
だから松にまつわる伝説とかいろいろ残されているのである。

冬の暮となると冬が暮れるということで12月でもいいが冬深むとなると一月からだろう。い,冬には冬の良さがあり冬は物思いにふけるのにはいい,
冬は岩と石にふさわしい季節でもある,冬に石とか岩の重みをより感じる
田舎だとそうした石と岩は近くでもある
だから自然とアイディンティティ化しやすいのである。そういう作業をしてきたのが自分だった

そして石とか岩を想う場合でも家が関係していた,家の不思議は一つの安定した場を与えることである。家があると精神的に安定するのである。
それも持ち家である程度の広さが必要である。
もしこれが借りているものだと狭い住宅だと何か精神の安定が得られないのだ
ただ一時的に借りて住んでいるというだけになる,それもまたこの世は借りの場だからという感覚になるので日本人はもともとそうして大きな家に住んでいなかった
また貧乏で住めなかった,ただ農家では家と仕事が一体化しているから家の重みがあった

昔の旧家だと奥座敷とかある,座敷は普通にあった,小高の人が50畳の家に住んでいたというのも驚きである。そういう屋敷のようなものがあった,そこは一つの城のようにもなっていた,なぜそんな家が必要だったのか?昔はみんな家に集まって法事とか行事をしていたからである。
ただ家というのは維持するのに大変だと家族がみんな死んでつくづく思った
直したりするのに金がかかる,するとある程度の資産がないと大きな家は維持できなくなる,また広い家だと掃除するにも大変になる
そして古い家は今回の地震とかで傷んだ,ひび割れしたり戸があかなくなったりした
それを直すとなるとまた金がかかり大変なのである。
だから家をもつのはいいにしても負担になるのである。

家を考えるとき奥座敷とあれば田舎だと奥座敷という場がある,この辺だと橲原(じさばら)とかはそんな感じになる,さらに奥に入ると人も住んでいない場があり岩がある
家としてイメージされることが田舎ではある,大きな家となるとそこがただ寝食するだけのものではない,精神的な場であり精神に影響するなと思った
大物は大きな家から育つと言う人がいたがそういうことはありうる
広い家に住んでいれば広い気持ちもなるが狭い家に住んでいると心も狭くなる

広い廊下は心を広くする
それは広い道路もイメージする
冬の光りが一杯さしこむ
そこでおもむろに古書をひもとき
長椅子に座り読む
八畳の奥座敷があり
そこは隠されて眠りにつく場
家は閉じた空間の中に
密なる場を与え精神を醸成する
・・・・・・

家というのは良く有名な旧家の家を紹介しているけど実際にそこに住んでみないとわからないのである。
それはどこでもそうである。住んでみないと深いことはわからない,住んでみてその土地のことがわかるのである。
家は細い廊下とか曲がりくねっているとそれは迷路のようになりそれは森の小径を歩いている感じになる,大きな庭があれば都会でもそういう感覚が生まれる
ただ都会では自然と結びつかない,田舎では生の自然と結びつくのである。
自分の家の特徴は二階の広い廊下にあった,それが外の景色と結びついていたのである。ただ自分は家に住んでいても自分の家のことがわからなかった
家族が死んで家を自分一人で住んで管理するようになってわかってきたことがある
なぜなら家族が死んでから残された家を管理するようになり家が傷んだり直すことで否応なく家に前より関心をもたざるをえなくなったのである。

細い廊下がある,廊下を曲がる
広い庭があり石がある
そこに冬の日がさしている
木の葉が散りつもり
池がありそれは森の中の沼に見える
それはより親しい空間である

家は広ければそうして一つの自然的空間を模したものとなっているのだ

住もうことのなかでのみ人間はその本質を実現することができる
住もうことは一つの確固たる位置を空間のなかにもつこと,つまりそこに属して根付いていることなのである。
しかし人間がこの位置にとどまりここを快適と感じるためには住もう「場所」はさきに我々が「体験されている空間」の自然な中心点,--]そこにこの空間のすべての道が関連づけられている
「人間と空間」オットー・フリードッヒ・ボルノウ

この本では家のことを哲学的に考察している,これは一読の価値がある
自分は実際はこの家に住んでいたとはならなかった,なぜなら家族が住んでいると自分の住んでいる場は割り当てられた部屋には住むが全体に住むということはない
自分の家で特徴なのは広い廊下と奥座敷だったからである。

家とはまた新しい家と旧家とは違っている,古い家には50年としても歴史がある
代々住むとなると家には歴史がある,一代だけでない何代かの記憶が家に詰まっているから違っているのである。そこに家の重みが生まれてくるのである。
だから原発事故など避難されて家を失った人達,大きな家に住んでいた人達がいたしその精神的損害が実際は大きなものだったのである。
それは家というものだけではない,それに付随する精神的なものを失ったからである。
故郷を失うということもそうだったのである。
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