小さな町の医院の跡(詩)
(これも郷土史の一片だった)
こんなもので医者が往診していた
その医院には
何かあたたかみを感じる
こじんまりとした
昔の小さな町の医院
90すぎた母が通っていた
ここのお医者さんはやさしいと
母が通っていた
冬の日がさして
庭には石が並んでいる
山茶花もまだ咲いている
まるで肩を寄せ合う
老人のように見えた
人が住んだ所に何かが残っている
小さな町の医院
そこには何かあたたかみを感じる
それはなぜなのか?
ここに住んで地域の人とともに生きる
そういう気遣いが開業医にはある
それが病院とは違うあたたかみをかもしだす
それで今でも何かその跡に残っている
しかしこの医院も壊されるとき
そうした過去は消える
でもここにある内は偲ぶことになる
毎日ここを自分は通っているからだ
たびたび夜間に患者さんから電話があって、当時は自家用車を持たない家が多かったから、往診することが多かったのだ。
交代で当直ができる勤務医のほうが楽だと思っていた。
今どきの開業医のほとんどは、自宅と医院が別である。
父の時代でも、「ふとんが温まる暇がないくらい往診が多かった」といっていたから、祖父の時代はもっとすごかったのではないだろうか。しかし、往診が多くて儲かったという生易しい問題ではない。道路事情が現在と全く異なり、往診そのものが大変だったのである。
当時は往診が多い,往診が多いというとき車もない時代だから苦労になる,姉は看護婦であり保健婦として役場に勤めた,その時一軒一軒自転車で回っていたのだ
下駄をはいていたような時代に自転車で回って歩いていた,姉は気丈夫であり体が強いからできたのである。
昔の自転車は今の自転車とは違いいいものではなかった,でも自転車で一軒一軒回っていたのである。医者も往診が多かったというときそうである。
昔の医者と今の医者も相当に違ったものなのである。
医院といっても今のように機械などはない,聴診器中心にみる,何か手作りの医者の感じになる,だからかえって人間的になりえたという逆説がある。
江戸時代になればなぜ医は仁術になったのか?そもそも医者にかかっても直せないと患者も思っていたから直らなくても恨んだりしないのである。
それよりやさしいとか思いやりあることが医者にも望まれていたのである。
塾の先生にしても人柄がいい人が選ばれたというのもそうである。
そこでは人を見る基準が全く違っていたのである。
今はみんな技量を見るし腕に重点を置くし先生でも高い知識をもつ人が選ばれる,人柄など関係ないのである,ただ医者でも口が悪くても医者として技量の高い医者はいる
近くの医者はずいぶん自分の家では世話になったが口が悪いので母は嫌って行かなかったやさしさがなかったのである。人柄としては良くなかったのである。
でもその医者のことは誰かが話して話題になっていたのである。
それが死んでからその医者のことを誰も語らないというのが不思議なのである。
死んでからすでに十数年とかたっているのか時間がたつのが早い
そしてたちまち忘れられるのがこの世の常である。
開業医と勤務医の相違は開業医は家族をもち地域に住んで生活をともにすることである。だから近くの医者とは何か病気意外でつきあいがありもらいものしたりあげたりと頻繁にあった,その辺が勤務医とか大きな病院とは違っている
それで原町の産婦人科の医院長がそういう医者であり癌になっても最後まで地元の人に尽くすべき奮闘したのである。
それは勤務医でないからである。勤務医の人は原発事故があり南相馬市立病院をやめた人を知っているからだ,あれだけの混乱とかで嫌になりやめた
勤務医の人はそうなりやすいのである。開業医の人は土着しているからやめることができないのである。その相違も大きいと思った
何か死んでから人はいろいろふりかえるものだと思った,ささないことでも何かそれが一つの生きた証となりふりかえる,そのふりかえり語ることが老人が生きる意味だともなる老人は何らかでみんな語り部になる,ただその語り部でもうまい人とそうでない人はいるでもみんなどんな人でも人生を生きてきたのだから何かしら語ることがある
それが郷土史にもなっているのである。
自分もそうだが自分の家のことには一番関心がある,だから郷土史とは自分のじいちゃんとかばあちゃんから聞いた話からはじまると書いたのである
むずかしい歴史もあるが基本的にはそうなるのである。だから誰でもともかく一番郷土史は身近なものとしてある
何かしらみんな違った人生を生きているからそれが郷土史になるのである。
人間の不思議は必ず自分であれ家族であれ他人であれ一生をふりかえる
そこに意味を見いだしてゆく,それが基本的には歴史になる
それが日本史とか大きな歴史ではなく家族でもそうだし個々人でも平凡な人でもある
自分にとって身近なのは姉と母なのである。それが死んでからいろいろふりかえることになる
なかなか生きているとき本当にふりかえるのがむずかしい
それは家族でなくても生きている人を冷静に客観的には見れないのである。
死んだとき何か冷静に客観的に見れるのである。
家族でも他者でもこの人はこういう人だったのかと再発見が常にあるのだ
そして不思議なのはそうしてふりかえり死んだ人でも語る時,その死んだ人が生きているように思えるのである。自分はプログで語っているが誰かに語ればそうなるのである。
でも何も語らないとするときその人は死んだ人のことを語りたくないのである。
それは親でも毒親としてひどい目にあった人は親のことを語りたくないしふれたくもないとなる,だから死んでも人間はそうしてあとあとまで影響があるからおろそかに生きられないともなる
いつも自分はなんか他者にとって嫌になるかもしれないが母と姉のことが浮かんでくるのである。それだけ六十年間一緒に住んでいたことで一体化していたということの裏付けにもなる,一緒にいた歳月の長さが関係していたのである。
だから長年連れ添った人が熟年離婚になるのはもったいないと思う
その長い歳月を一緒に暮らしたことが苦い思い出なるとことは何なのだろうと理解しかねるのである。
そして一緒に墓に入りたくないというのも何なのだろうと思う
そんなら確かに早く離婚した方がいいともなる,一方で昔をふりかえり思い出を分かち合う老夫婦などは幸福だとなる
いづれにしろ何か人が歴史というとと大仰になるが思い出を刻んでいるのである。
そして最後はその思い出に生きるのである。だからいい思い出をもった人は老後は幸福だともなる,そのいい思い出とは何なのか?
それは個々人にとって違うから他者にはわかりにくいのである。
例えは苦難を乗り越えたという経験は後で悪い思い出となるとは限らない
あのときなんとか苦しいけど耐えた,今は楽だとかなりそれで幸福感に充たされる
でもそういう苦難のない人は老人になってもそういう幸福感にはひたれないのである。
だから最後に何が幸福をもたらすかも人間はわからないのである。
インターネットのプログではそうして今度は昔を語る人が増えてくる,そういう場としては向いている,それを本にして売り出そうとすると簡単にはできないからである。
これも商業主義には向かないものがあるからだ,ただこれからインターネットでも老人化してくるから思い出話に花が咲く時代がくる,
ただどれだけそこで思いで深く語られのか?浅薄な生だったら語るべきものもないとなり淋しいものとなる
大正生まれとか戦前生まれは激動を生きたから語るものがあり重いものをもっていた
現代は何か物質的には恵まれて浅薄なになっているから語るべきものがさほどないとなるかもしれない,語って面白い人とはそうして激動を生きた人だからである。
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