2017年12月23日

自己責任は弱者に対して言われる (権力もっているものこそ責任は問われるべき)


自己責任は弱者に対して言われる

(権力もっているものこそ責任は問われるべき)

民主主義社会というとき自由と個々の権利とかを追及する社会である。ただ権利をもつと責任をもたされる社会でもある,権利というのは明治に翻訳されたが元は権理だったのである。理があり権利が生まれるということである。
リーゾナブルなものとして権利が生まれた,でも翻訳すると日本では利だけが強調される権利はライトだから正しいということでもそうである。
戦後民主主義は利だけを個々が極端に追及してそれにともなう責任とか義務はないがしろにされたのである。
権利が与えられれば義務も責任もともなうのである。

自己責任はそこからもともと発しているのである,例えば政治でも江戸時代なら庶民は「見ざる,聞かざる,言わざる」だから権利もないが責任もない,それで政治には必ず不満があるから一揆が起きた,それは命懸けだったのである。
すべてお上の命令のままに生きていた時代である。そこには権利も責任もなかったとなるその権利を実現するには命懸けの一揆であり暴力革命しかなかった
世界史は暴力革命の歴史である。不満分子が暴力でしか政治を正すことができなかったからである。選挙などないからである。

だから庶民に一票が与えられたとき庶民に権利が与えられたから責任と義務が生じた
それで政治家のことをいろいろ文句言ってもそれはお前たち選んだ政治家だから政治家が悪いわけではないとなるのである。
その政治家を選んだ庶民が市民が悪いのだとなる
つま権利が与えられると責任が生じるのである。

そして責任は権力をもつものがとらねばならない,なぜなら権力をもつことは大きな責任をもつことなのである。権力がもたなかったら何もできないからである。
権力というときいろいろあるが金は資本主義社会では最大の権力である
金を持つだけで資本主義社会では大きな権力でありあらゆるものを得ることができる仕組みになっている

自分は何の権力ももっていなかった,ただ遺産相続して金を自由にできたとき権力をもったのである。そこでもめたというのも権力に対して金だけを一人じめにするなとなるからである。お前だけの遺産ではないとか兄弟間とかでもなって骨肉の争いとなる
逆に金を自由にできないものは権力がない,だからかえって責任がないともなる
その金を自由にできる使うことができる人は大きな責任をになっていることになる
だから金に対して周りでもうるさいのは金をどうその人が使うかと見ているからである。
自己責任というとき権力がないものに自己責任をおしつけるのは問題である。
金を多くもてばそれを何に使うかで責任が問われる,放蕩して遊ぶだけに使ったりしたらいくら自分の金だからといって周りでは許さないということもある
金を見る眼はみんな厳しいからである。
なぜなら働いても働いても金にならない人が膨大にいる,するとその人たちは金のある人に対して不満になるからだ,金はその人だけでは稼げないものだからである。


だから資本主義社会では金がもつ度合いに比例して権力をもつことによって責任がある
10億円もてば10億円の責任が生まれ一億もてば一億の責任が生まれる
その金のないものは責任はないのである。江戸時代では十両盗んだら首が切られたと同じである。
自己責任論となると何か貧乏な人は貧乏になったのは自己責任だと弱者に対して必ず言われる,それも一理あるのだが強者に対しては自己責任論は言われないのである。

原発事故でも国の官僚とか政治家,科学者とか東電の幹部とか大きな責任があったけど
何の罰も与えられていない,その人たちこそ罰せられるべきだけどされない
そして地元の人達も原発で金が入ったのだから自己責任だとしきりに言われるのも変なのである。もちろん地元では金,金,金・・・だったということもあり責任はあった
でも本当の責任は権力をもっていたものにある,原発を作ったものに責任がある

自己責任は弱者について言われることが多いのである。もちろん例えば麻生大臣が老人で健康でないものは自己責任があるというのもそうである。
自分も不摂生するからそれには明かに自己責任がある,それで国の金を国民の金で援助するのは理不尽だという,つまり自己責任というとき自己責任だけで完結しないから他者の迷惑になるから自己責任を言うのである。
健康とかもただ自分自身のためだけではない,家族のためでもあり社会のためにも健康には気をつけろとなる

そして弱者とは何かというときこれも例えになるがそれは卑近な日常の生活にもある
買い物すると失敗が多い,家電量販店でレジを買ったときもそうである。
いろいろなレンジが並んでいたがどれを選んでいいかわからない,でも店の人は良く説明しないのである。そして選ぶのは自己責任になり3万の買ったけどそれは一万のと何ら変わりなかった,どれがいいかは選ぶのは自己責任ですよとなる,それを買って失敗したとしても誰も責任はとらないのである。
でも通販だとレビューがありその品物の評価がでているから情報が与えられているから選ぶとき失敗しない面はある,店だと店の方で売りたいものを売るとなるからである。
銀行だと銀行のもうけになる投資信託を売るとなるからである。
そこに売る者と買う者のは対等ではないのである。

情報でも対等だったら自己責任論は生まれない,マスコミが今まで責任があったのは六局しか報道できなかったからである。それで第3の権力と言われたのである。
それがインターネットが生まれたとき情報の平等が生まれた,個々人でも発信できるからである。情報も自由に与えたり発信できなければ自己責任といってももち得ようがないのである。知らないのだからもち得ようがないのである。

原発事故でも知らされないからこそ責任は上の支配者層にあったとなる,また専門知識となると放射能のことなど説明されてもわからないからまた専門家によって支配される

「あなたは核のことがわかるんですか」
そう問われるとわからないから専門家の言う通りにされる
「あなたは法律のことがわかるんですか」
これも同じで専門家の言う通りにされる
「あなたは医学のことがわかるのですか」
こういわれて無力化される
「あなたは株や投資信託のことがわかるのですか」
これもまた同じである。

でも逆に

「あなた方専門家は核のことをすべて知っているのですか」
これに自信をもって言える人は実際はなかったのである。
「株や投資信託のすべてわかるのですか?」

銀行員でも専門家でもわからないですよといっているのだから実際はこれもリスクがあり専門家がすべてわかっているわけではないのである。
もし全能の神のようにすべてわかっていればそんなことを問わないのである。

だから何でも自己責任は確実にある,でも全部が全部自己責任にはなりえないのである。すでに権力を持つものと権力をもたないものでは自己責任は相当に差がある
権力ももつものこそその責任を厳しく問われるはずだが弱者に対して自己責任が問われる正されるのは本末転倒だとなる
ただ健康とか個々の生活で人生で自己責任はあるし問われる
でも自己責任論はそうして権力もつもつものには問われず弱者に対して問われるのであるそれは権力者にとっては好都合になるからだ,金があるものは金のない貧乏人は自己責任だと言っていればいいし責められずにすむからである。

ともかく人間は全能の神ではないのだからすべての責任をもちえようがない,
必ずミスもある,だからミスを前提にしてしか責任はもてない,だから原発の「安全神話」は神のように事故は起きないと言っていたから問題だった
そして誰も責任はとらずただ地元の人は被害を受けて責任をとらされたのである。
そこにも自己責任はあったとしても一番の責任は原発を運営した人達だったのである。
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