2018年01月14日

仕事になるのはみんなのためになること (一人はみんなのために みんなは一人のために)


仕事になるのはみんなのためになること

(一人はみんなのために みんなは一人のために) 


仕事というのを考えるとき自分の例だと例えばお手伝いさんを雇うというときそれは自分という一人のためであり家族のためである,でもその範囲は極端に狭くなる
すると社会的にその仕事が認められるにくい
戦前女中が多かったというとき家事が家族だけでできない社会的事情がありそうなった
今は家事は機械化しているしいろいろオカズも買うことができる
家事は一人でもできるようになっている

だからオカズをスーパーなどで売っているというときそれは一家族のためではない,みんなのために売っている,オカズでも食事は家族のために作っていたのである。
家族労働と社会的労働とは違っている,現代は家族的労働が社会的労働にとって変わってきている,掃除すら会社がしてまわる,それは一家族のためではない,みんなのための労働なのである。

まず一家族だけの労働だとすると一個人のための労働だとすると仕事にはならない,収入にもならない,たいがい製品でも食品でも売るものはみんなに受け入れられて評価されなければ売れないのである。
社会的に認められ受け入れられたものが社会的価値あるものとして受け入れられる仕事になる

例えば食堂でもレストランでも一人のために食事を出す所などないのである。
ある程度の人数のためにサービスしているのである。
でも考えてみると金持ちがいて一人でもそのレストランが成り立つようであればできる
そうなるとそれは王様くらいしかいなくなる
そういうのは現代では成り立たない,ただ食事でも高級な食事はある
そういうレストランは都会だとあるし田舎だってある
それは特別であり予約制になっている
一般的にはそういうのはまれであり仕事として成り立ちにくいのである。

仕事というとき何か自分が人を雇って感じたことはみんなのための仕事でないのは仕事として社会的に容認されにくいのである。
社会的に価値が認められないのは仕事となりにくい,介護でも家族内でしていてもそれが社会的には認められない,家族なら当たり前じゃないかとなるだけである
でも他者がかかわり施設などを利用したり入るとそこは社会的に認められた仕事である。それは一人のためにではない,みんなのためにしているからである。

みんなのためになるというとき電気でも石油でもガスでも一軒のために供給するのではない,もうこれは全員に供給しているのである
そういうのが仕事であり社会的に認められる,家族内では家族だけの人のための労働になる,それは社会的労働とは違っている
でも人間は家族内ですべてできればいいのだができない,だからこそ社会的労働が家事の分野まで拡大したのである。

野菜とか米とか農業でも自給自足していても仕事はしている,それは家族内労働とにている,農家では納豆を作っていたとか味噌を作っていたとか自給自足であった
でも現代では文明とは無数の職業がある,分業化した
すると仕事になるにはみんなのためになることをしないと社会的には認められないし金にはならないのである。
家族内で自給自足していているのと野菜でも米でも果物でも売るとなると自分の家族のためだけではない,みんなのためになり仕事となる
でもそうなるとその品質も売れるものとして作らねばならないのである。
市場に出して商品として売れるものみんなに認められるもの必要とされるものを作らねばならない,それは自給自足で野菜などを栽培しているのとは違ったものになる
価格競争もあり品質競争もありそれに勝たないと売れないともなる
自給自足だと競争というのはないからである。

みんなのためになるのが仕事だというとき例えば自分が駅に鉄道の時刻表を作って置いたそれは需要があった,もう千枚以上すっているが以前としてもってゆく人がある
それはみんなのためであり一人のためではない,だからビジネスにもなるのである。
無人駅での案内などは外部の人のためであり町の人のためでありその範囲が広いのである今やグローバル化になると世界の人のためになり世界の人のために売れるものが認められる,世界的に容認されて仕事となる

そしてそういうことができるのは大きな会社組織である,みんなのためになるものを提供するとなると社会組織にならないとできないからである。
だから今は女中のような個人である特定の家族のみに労働を提供することはまれになった掃除するにも会社が多数の家をまわってしているのである。
そういう形態は過去にはなかった,家事でも会社組織となってしているのである。

その女性は一時仮設の食堂で働いていた,その時その食堂は繁盛した
外部の人も大勢来たからである。自分も通っていたから街の人にもサービスしていた
でも外部の人の方が多かったのである
今でも仮設に一軒食堂があるが外部の工事関係者が入っていて成り立っている
つまり仕事になるのはそうしてみんなのためになるもの,より大勢の人のためになると仕事になり収入にもなるのである。
現代はこうしてみんなのために働いている人が多いのである。
それが仕事であり分業化してそうなっている,そうでなければ仕事として認められないからである。

なぜ自分に人を雇う資格がなかったかというとそれは自分一人のためになっていたからである。
「あなたはどこで何して働いていますか」
それがその人をどういう人か見る指標である。
だからどこの会社で働いているかで人を見る,人の価値を決めたりするのである。
「私はある家で家事働きをしています」
そういうのは今では社会的に価値として認められにくいのである。
だから家事サービスでも会社組織になってしているのである。
つまりみんな会社員の時代になったのである。

一人はみんなのために みんなは一人のために

こうならないと仕事になりにくい,みんなそうして仕事しているのである。
自分の場合はそうなっていないから人を雇うことも使うこともできないとなったのかと反省したのである。

この言葉もまた深く解釈すると逆に生活保護とか福祉になるとそういうのはみんなで負担するということになる,みんなの了解を得て給付するとなる
第一自分とか一人に頼られてもできないからだ,そういう余裕のある人はまれだからである。だから福祉関係もみんなで負担して助け合うとういうことで成り立つ
みんなはひとりのために助けるということがある
ただそこにもやはりみんなの了解が必要になる,それが民主主義社会となる
民主主義社会自体みんなの社会であるからだ,王様のための社会ではないからだ
だから格差社会が問題なのである。


posted by 老鶯 at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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