2018年01月22日

樹の思考(一本の樹の立つ地(詩)より)


樹の思考(一本の樹の立つ地(詩)より)


一本の樹の立つ地

樹は大地を信頼し
徐々に深く根を張る
静かな冬の日に信頼を深める
樹は大地に根を張り
その土地土地に根付く
風の日も雨の日も雪の日も
その土地に根付いて動かない
そして最後は大地に朽ちて還る
その根を張った地こそ
還るべき場だから
そして大地に抱かれて眠る
ああ その一本の樹のここにありしを
その樹はなお幻となりて立つ
その記憶をここに留めぬ
祖先の霊も地に眠る

one tree trusts in the earth
Gradually deeply root
Deepen trust on a quiet winter day
Trees are rooted in the earth
Rooted in the local land
Wind days, rainy days and snowy days
It takes root in the land and does not move
And finally decaying on earth grounds
The ground that has established its root
Because it is a place to return
And sleeping in the earth
Oh, that there is one tree in here
The tree still stands as a vision
It certainly keep the memory
The spirit of the ancestor also sleeps on the ground

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樹が自分のテーマである。樹を思念するとやはり人間と通じる,人間は万物の霊長だというとき人間は樹でも石でも山でもそこに人間を見る
像で考えよというときそういう自然の事物とアイディンティティ化してゆくのが人間である。
人間は生物の一種だから人間は樹にもなる,人間が樹なのである。
神殿の柱はそれは石としても人間なのである。
こういう生は自然な命の営みである,それは営々とつづけてきたのが人間である。
また生物である,ただ生物は多様だから海となるとまるで違ったものになる
そこは常にゆれうごく不安定なのである。田から津浪が来たりするのである。
大地は全く違ったものなのである。確かに地震があり大地もゆれるから安定しているとはいえないがそれは海とは違っている,山もそうである。

人間の生は基本的に生物の一種だから命でも自然と共にあり朽ちてゆくのがまさに自然だとなる,それに逆らうことはできない,人間が死ぬことは樹が朽ちてゆくことである。
でもその樹の朽ちてゆく場所が地があらねばならない
人間は地からてありえないのである。ただ海があり天がありその志向はまた違ったものなる,地を離れて天に昇る思想があり宗教になった
だから人間は地に朽ちて終わるという思想は農業から生まれ天への志向は砂漠の民とか
草原の民,遊牧民から生まれたのである。

一本の樹が大地に信を深めるというとき何かそれは人間が農業中心になっていたらそういう感覚は人は常にもっていた,そこから二宮尊徳の思想が生まれた
農業は地を離れてありえないからである。ただ現代は地から離れて生活している
東京であれ都会であれ地から離れている,そこには土がないのである。
それでも一千万人が生活できているというのも不思議だとなるし異常だともなる
そこでは人間は大地の志向がないのである。
死んだときも遺骨が団地のような狭い場所に安置されるのもそういう生の延長としてある
今は田舎でほとんど会社員である,例えば銀行員にそうした地銀でも土着的な地の志向などない,グローバル化した中で金を動かす,そういう仕事に地の志向は生まれないのである。そういう人を相手にして自分が株とかしているのも矛盾しているのである。
日本人が貯蓄の志向が強いというときやはり農民であった期間が長すぎるからである。
それがDNAとなっているからである。地は血なのである。

都会での人間の生はこうした自然から離れている,人工的なものに囲まれていて本来の人間の姿を像を失うのである。
だからそこで重厚な文化は生まれない,ただ便利な生活をしているだけで文化は生まれない
なぜなら文化はcultivate→cultureというとき土を耕すことだからである。その土地土地の土を耕すことから生まれているからだ
現代の人間は機械の部品のようになり死ぬともなる、数字化したもの番号になもなる
それで議員が病院で番号で呼ばれて怒ったというのもわかる
名前すらない,みんな数であり番号だともなる
病院での死は物としての死であり荘厳な樹のような本来の生物としての死はないのである。
だから不思議なのはなぜ原発事故で避難者となった人達は簡単に故郷を捨てたのか?
それは田舎でも実質は都会化しているかもしれない,三分の一は原発で働いていたとか?
別に農民ではないからだ,すると土地に執着する人はまれである
ただ老人はやはり長くその土地に生きていたからその土地にいたいとか死にたいとか生物的志向になる
もちろん放射能汚染のだめだとなる,ただそれが全部が全部そのためだけではないと自分は書いてきたのである。

言葉でも自然から遊離した言葉であり像から思考できないのである。商業の言葉とか法律の言葉とか機械の言葉とかなる,そこにもともと言葉が生まれた自然かないから言葉がロゴスが消失するのである。言葉は本来は詩だったのである。そのエッセンスが文明によって失われたのである。

ローマ文明は土木建築が発達して優れていた,道を作るのにもたけていた,それは公共事業が高度成長時代を作り田中角栄が日本列島改造論を実行したのもそうである。
ところがその時その土地土地の文化が失われる,画一化されてくる
ローマ文明は拡大化することによって終焉した
そして中世は地域地域の文化を基にして生活することになった
その時期は長い,でもゲルマン文化,ドイツ人がゴシック建築などを作ったのはやはりドイツの森を基にして作られたのである。

アメリカはそうした大衆のための大量生産方式を生み出した,現代文明はアメリカ式生活の拡大化でもあった,それはローマとは似ていた,享楽的な所もありにていた。
グローバル経済もそうである。それはアメリカ式生活の普及であり食生活でもハンバーグなどが世界中に広がったからである。
それはその土地土地から文化から離れた無視した強引な同一化だったのである。

それぞれの地に根を張る文化は世界にありそれを無視したアメリカ的生活の押しつけだった,だからグローバル経済というのは世界の文化をも破壊する
金によってなんでも買えるという経済一辺倒の価値観に支配されたのである。
それで歴史のある国はこのグローバリズムに対立するようになる
つまりナショナリズムは悪い面にもとられるがその国々の文化を基礎にして重点にして生活するということである。
グローバル経済になれば言葉でも英語に統一すればいいとなりアメリカ式にそれでなる
そするとアメリカスタンダードになりアメリカが世界を支配しやすいということである。現代は中世への回帰の時代だというときそれぞれの地に還り地に根づいた文化の再生なのである。そこからルネサンスが生まれてくるのである。
タグ:一本の樹
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