2018年01月30日

中国の旅(春の俳句) (中国の歴史と文化の考察)


中国の旅(春の俳句)

(中国の歴史と文化の考察)

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(寧波)

城門を入りて街や春の月

寧波より運河に上り春の寺

塔いくつ高きや紫春の山

栄えたる唐の日の塔中華の春

(蘇州)

城壁の長く春の日船着場

ここにまた船着場あり春の暮

双塔の古りて曇りぬ春の月

春の日や水満々と太湖かな

春の暮塔傾きて蘇州かな

北塔の厳しくますぐ中華の春

春の日に奇岩に塔や蘇州かな

春の日や力車の老人目の悪し

菜の花千里の運河船の行く

菜の花や豚船に積み運河行く

(西安)


城門を入りて休らふ春の月

楊貴妃の肌の白きや春の雨

華清池に楊貴妃の幻春の夢

我が上る始皇帝陵中華の春

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蘇州春情

蘇州の雲岩寺塔


寧波市(ねいはし、ニンポー)

唐代の開元年間に明州と呼ばれ、南宋では慶元府、元代には慶元路と称された。2度目の元寇、1281年の弘安の役では、江南軍10万、約3500隻が日本へ向け出港したが、帰ってきた者はわずか1割から2割ほどだった。ただ古くから日本と交流のあった旧南宋人は日本で捕虜となった後も処刑されず助命され、九州などの宋人街などに住んでいた。明建国間近の1367年、再び明州の呼称に戻り、清代に寧波府と称されるようになった。この呼称が現在でも受け継がれている。

唐代から日本、新羅、東南アジアの船が往来し、宋・元の時代にも日本の仏僧が遊学した

梁甫の吟 諸葛亮孔明(りょうほのぎん しょかつりょうこうめい)


歩出齊城門
遥望蕩陰里
里中有三墳
累累正相似
問是誰家塚
田彊古冶氏
力能排南山
文能絶地紀
一朝被讒言
二桃殺三士
誰能爲此謀
國相齊晏子

斉の城門を歩み出ると、
遥か彼方に蕩陰の里が望まれる。

その里には三つの墓がある。
うずたかく盛り上がって、三つとも同じような形だ。

「これは誰の墓かね」と尋ねると、
田開彊と古冶子と公孫接の墓だという。

その力は南山を引き抜くほど。
その文才は、地紀(大地を保つ綱)を断ち切るほどであった。

ところがある朝三人は讒言を受け、
二つの桃を三人で奪い合って殺されてしまった。

誰がこんなうまい策略をなしたのだろう。
斉の宰相、晏子である。

一つの桃を巡って争うというのは今でも通じている,遺産相続のときなりやすいからだ
中国は古いから墓の国である,そもそも最後に人間が残すのは墓だからである。
それはエジプトでも文明そのものが最後は墓場になるからである。

渡荊門送別 李白

渡遠荊門外
来従楚國遊
山随平野尽
江入大荒流
月下飛天鏡
雲生結海楼
仍憐故郷水
万里送行舟

門を渡りて送別す 李白
渡ること遠し荊門の外
来りて従う楚國の遊
山は平野に随いて尽き
江(かわ)は大荒に入りて流る
月下に天鏡飛び
雲生じて海楼を結ぶ
仍(な)お憐れむ故郷の水の
万里 行舟(こうしゅう)を送るを

現代語訳
はるばると旅をして、荊門の東まで来て、
楚の国を旅するのだ。

山は平野があらわれるにしたがって無くなり、
長江は果てしない平野の中を流れていく。

満月は傾くのは、天を鏡が飛んでいくように見える。
雲が起こるのは、蜃気楼があらわれたように見える。

それでもなお、しみじみ懐かしく思うのだ。
わが故郷・蜀から流れ出した長江の水が、
万里のかなたまで、行く船を送るのを。

語句
■荊門 長江の南岸、宜都(湖北省枝城市)の西北にある山で、蜀と湖北・湖南地方との境目。 ■渡遠 故郷の蜀の国を出て、はるばる荊門の外(東)まで旅をしているという実感■大荒 果てしない空間。湖北・湖南の平野を指す。 ■天鏡 空を移動する月を鏡とたとえた。 ■海楼 蜃気楼。

中国を理解するのはむずかしい、広すぎるからである。ただ中国を理解するのには城壁で街が囲まれている,城門を入るとそこは城壁に囲まれた街で外敵から守られているという感じになり安心感がある,それはヨーロッパでも城壁に囲まれた市壁に囲まれて都市がある。そこがにている,日本の城だと城と町は別であり城は城としてあり城門もあるが街とは一体化していないのである。
中国とかヨーロッパでは戦争になれば一般市民も皆殺しにされる,日本では侍同士の戦いであり庶民はその戦争に巻き込まれなかった

イギリス史では、「シティズン citizen」と「バージェス bourgeois」(フランス語で言うブルジョワ)という言葉が必ず出てきます。字義通りには、シティズンはシティの市民権を持った住民のことで、バージェスは、そうでない都市の住民、有産者と言うことになります。ただしイギリスでは、シティというのは非常に限られた数しかありません。アメリカ英語では、大きな町のことを何でもシティと言いますが、ほんらい、シティというのは、司教座のあった町のことで、イギリスでは26しかありませんでした。シティ・オブ・ロンドンには、司教座がありましたので、シティなのです。司教座がなくて、城塞、つまりブルクから発展した城下町をブルクと言い、そこの住民がブルジョワということになります。

ブルクとは城のことである。つまり城壁の内に住む人達でありそれがブルジュアになったシティズンが司教の座があった街というのもそこにヨーロッパの歴史がある
ヨーロッパと中国の歴史の共通点は城壁の内に入ればそこで安全が確保されていたのである。城壁を城門を出れば安全は確保されない,荒野ともなっていたのだ
その感覚は万里長城にも現れている,あれだけの広大な国を城壁で囲もうとしたことからもわかる,外敵から守るためにあれだけの万里長城を壁で国を囲むことはそうした城壁都市から拡張したものとして生まれたのである。

バベルの塔とか大陸で塔は外敵から守るために監視するために必要だった
これもヨーロッパと中国は共通している
仏塔はインドから伝わったがインドもまた大陸文化を形成した国だからである。
蘇州は塔で有名である。中国では塔はいろいろある,塔にも個性がある。
日本の五重塔は優雅であり優美となるが中国とかヨーロッパの塔は監視の塔としての起源があるから厳しい姿にになっいる、八角形とかなるとひきしまる感覚になる

漢詩でも城門を入ると城門を出るというのは家を出るとか故郷を出るとかまた帰るとかの感覚になる,門がそうした感覚を作り出している,それは日本にはない
城下町でも別に門から入らないし城壁も囲んでいないからである。

自分が旅したのは寧波でありここは日本とも関係深い交流のあった港である。
そこから運河を上り道元が禅の修行した天童寺に船で行った
これも中国的である,運河がどこにも張りめぐらされているからである。
それはヨーロッパともにている,川と運河が交通路になっているからだ

蘇州とか杭州とかこの寧波辺りは中国を旅するにはいい,寧波には唐時代の塔があったとか言っていたが記憶が定かでない,何か旅で思い出すことがなかなかできなくなる
あそこはどこだったのかとか朧になる
d せなんとか記憶をつなぎあせる,前に中国の旅の俳句とか書いたのでそれを参考にまた思い出す旅をする,旅は写真でもメモもしていないと忘れてしまうのである。
外国のことは本を読んだだけではわからない、一見は百聞にしかずである。
自分は50代に旅したから苦しかった,でも中国は二回も行っている,一カ月くらいは日本を出ると旅していた,ただ中国は広すぎて理解するのはむずかしい

西安は長安は唐の都であり日本人の阿倍仲麻呂が奈良時代に留学している
その始皇帝陵とかに上る,墓が巨大な山になっているのも中国の巨大さである
楊貴妃の風呂の華清池があったりそれから観光として地下帝国巡りとかあった
地下に一大宮殿が現実に始皇帝の時代にあった
その豪奢というか享楽の世界も並外れている,そして無数の民がいて大河に藻屑に消えた兵士もいる,そのスケールが日本では想像を絶する世界なのである。
だから大陸からなみはずれた英雄が生まれる,桁違いの人物も生まれても不思議ではないとなる

要するに世界を理解するというときそのスケールの大きさが日本とあまりにも違いすぎることなのである,空時代は日本では山が多いから狭い感覚になる
大陸では空がどこまでも広がっているという感覚になる
空の感覚まで違っているのである。それはアメリカ大陸でもそうである。
ただ中国というのは共産党時代になりこうした歴史ある中国が見逃されている
共産党だから近づきにくいとなる,でも日本と中国の交流が長いのである。
そういう歴史があっても欧米先進国に習ったから中国に習うものがないとかみる
でもそういう時代も終わりつつある,中国の方が技術的にも経済的に大きくなり中国がアメリカを経済ではぬくとか技術もIT分野でぬくとかなるとそうなる
では中国の時代が再び来るのか?その時日本はどうなるのか?今度は中国の属国になるのかただ中国との交流が深まれば再び文化交流も活発になることは確かである。
中国の文化や歴史は欧米一辺倒になったとき見逃されたからである。








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