無常の世の短歌十首
(空家が増えたり団塊の世代が大量に死ぬ時代)
死ぬ前にもだえ騒ぎて声やみぬひぐらしの声耳に残りぬ
その土地に根付き朽ちにし老木のこの土地にこそ思いは残る
大原の知りにし人の眠る墓ここに生きにし思い出深しも
大原に住みにし人の病院に語りつつ死に心に残りぬ
大原に空家のありや誰か住むなお残りつつ冬の日暮れぬ
今日もまた死ぬ人ありぬ 誰なれや何か語らむ一言なりも
近くにそ空家となるもこの女のいづこにあらむ冬の日暮れぬ
家の跡一本残る松静か冬の日さして今日も暮れにき
たちまちに灰となりにし人の生その声やみて訪ふ人もなし
津浪にて消えにし村や形見とて残る碑一つ冬の日暮れぬ
捨てられし墓もありなむ何語る何か思いをここに残しぬ
亡き人の時に顕れ住みし家生きにし土地をなつかむかも
人間の世は無常である。自分はそのことを家族の死で経験したし回りでも津浪原発事故で大きな無常を経験した,人間のはかなさを経験した
死ぬ前に人はもだえ騒ぐ,でも一旦死ぬと何も語らない,あれほど騒ぎ語ったのにもう何も語らない,遺影に向かって話しても返事は全くない
その変化が大きく人間は耐えられないのである。
そうなると喧嘩していたときもなつかしいなとかなる
それはこの世に生きているときが一時だとなるからである
長いようでもいづれは死に永遠に別れてしまうのが人間である。
南相馬市立病院で一カ月入院したとき最期に語ったのが大原の人だった
その人は話することができなくなっていた,ただ最期に話ができるようになった
だから大原のことで生活したことなどの話を聞けたのである。
それもふりかえれば貴重なことだったとなる
その人の墓は大原にあるが家は空家となって跡を継ぐ人は市内に住んで住まない
それも淋しいとなる,何か今はこうなりやすい,空家が膨大に増えてくる
近くでも空家が多いし一人ず住んでいる人が多いのである。
一人暮らしの人が組で四人とか多いし空家が多い
これはここだけではない,一人暮らしと空家が多い時代になったのである。
近くに家だった跡がありそこに一本松が立っている,そこでここに家があったのだと知るが自分はすぐ近くなのに記憶がないのである。
ここに家があったという記憶がないのである。これも奇妙である,宅地整備で変わったためでもある
ただそこに一本の松が立っている,それが形見のように立っている
ここに庭があり立っている,それでここに家があったということを知る
そうでなければ荒地となりここに家があったこともわからなくなる
ともかくその土地に生きたとしたらその土地に思いは残る
何かそうした思いが残る土地が故郷でもある
だから津浪や原発事故とかで故郷を離れた人達は特に老人は悲劇だったのである。
そのことはあまり語られないがやはりその土地に生きてきたのだから思いは残る
人の生が短いとするときやはり長く一緒に暮らした人とかその土地のことは忘れがたいとなるからだ
人は次々に死んでいる,めずらしくもない,これから死ぬ人が増えてくるから駅前の農協の葬儀部門が繁盛するし都会では火葬場がないとか問題になる
田舎の仕事が介護とか医療関係とか葬儀屋が繁盛する,それで地方が活気が出るのかとなると疑問である。駅前だって葬儀屋があるのが場違いに見えるからだ
姉が火葬場で焼かれるときひぐらしが鳴いていた,姉は社交的な外交的な陽気な女性だった,だから認知症になっても同じことを千回もしゃべりつづけた
それを聞いているのが嫌になったがしゃべりつづけた
暴れたり騒いだりもした,でも死んだから何の声もない,返事もない
人生も終わってみれば一時であったとなる,そうして膨大な人が灰となり忘れ去られるだけだとなる
墓地に行けば捨てられた墓も必ずありそれらは誰なのか,何者なのかもわからなくなる
墓は最期の形見でもそれすら忘れられてしまう。
結局この世が無常ということは変わりなかった,ただ多少長く生きて死ぬかの差はあったでも長く生きても遂に死ぬ,それは変わりないことである。
人間は無常の中に生きる,無常から人間を見るべきだともなる
この世のことはすべて無常のことなのである。
だから人生でいろいろあってもこれも無常でありこの世を生きることに生に執着しないことであるとなる
それは一時のこの世のことでありそれは無常となり終わる
そういう無常の観点からこの世を人を見るべきだとなる
家の跡に残された松
ここに家があった
その跡に一本の松が残り立っている
その松は何を語るのか
その松はこの地に根を張り
枯芒の中に家なき跡も立っている
冬の日がさして静かに立っている
松には誠実を感じる
家なき跡も誠実を示しているのか
何かそう人間はありたい
人が死んだ後にあの人はどうだったとなる
死んだ後の評価は大事である
巨万の富を残しても評価されない人もいる
人間の価値は死後に正しく評価される
この松のように人は残るものがあってほしい
誠実な松がここにいつまでもまだ立っている
地に根付いてここを離れず立っている
原発事故で避難した人々の家はまるでもぬけの殻のよう地なり残っている
それも不思議なの光景である。
あんなふうに街自体が廃墟のようになるとはイメージもできなかった
それこそ無常だとなる,津浪でも村が全部消えたというのもそうである。
そんなことがありうるのかということがこの辺ではつづいたのである。
そうでなくても人間の世は無常である。この辺ではその無常なことに津浪や原発事故で拍車をかけて無常になったのである。
街自体が廃墟化することば一軒の家が空家となり空き地となるのとはまるで違っていた
まだ人が継続して住んでいるから町全体が無常化することはないからだ
それが何を意味しているのかもわからないともなる
ただそこにも継続して人が住んでいたのでありだから愛着が残る
そういうものが失われることはさらに無常であり他とは違っている
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