海からの視点
(南相馬市の大船とかそが船とか船着の地名)
津浪が来た地点に古代の地名が残っていた
大船は烏崎である
●海からの視点が日本では先にあった
日本の神話は国産み神話は海人族のものである。その国土形成もイザナギとイザナミであるが島々を作るというとき塩の滴りから作るというとき海人族のものである。
この地球を見るとき山から見る視点になると国見というとき
天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌(おほみうた)
《訓読》
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和国は
これは山からみて国を見る,南相馬市にも原町区に国見山がありそれがちょうど小高とか鹿島の範囲が見える,だから南相馬市は地理的に一体感があった
相馬市となると国見山から見える範囲からはずれてくる
この万葉集の歌では海原(うなはら)や鴎が出てくるくることが大きな疑問になっている
それでもともと奈良は太古から大阪湾から奈良まで入り込んでいたという説がある
その当時の地理がありそれで歌われていた
それは今回の津浪でわかったように海は陸に深く入り込んでいたことが証明された
それで日下石(にっけし)は太陽の陽の沈む場所でありその古い地理の痕跡を示していた
なぜそこが陽の沈む場所だったのか?それは陸から見ていたらむしろ陽の昇る場所だからである。
現実に日下石まで津浪が来て太陽がかがやき沈んでいったのを見たときは本当に驚いたのである。それほど深く海は陸の方に入り込んでいたのである。
海から見る視点が欠けるのは海は日常的に歩かない,海に通じているのは漁師などだけど漁師のことは良くわからない,漁師は山を目印として見ている,船に乗れば意外と山だけが見えるし目印になりやすいのである。
その山を目印にして航行できる,例えば新地からは牡鹿半島が見える,金華山も見える
新地駅は新しくなって高いから駅から見える
意外とこれも近いなと思う,すると船で渡ってもまようことがない,目印がはっきりしているからである。こういうふうに海から見る視点は違ったものとなる
それでも海から国見などはできない,山がありそこから平地を見て山を見て海を見るのである,でも日本では盆地が多いから海は見えないことが多いのである。
福島県だと浜通りは海が見えるから会津とは相当に感覚的にも違う世界なのである。
それで海からの視点とか歴史をみることが必要になる
その海の視点として見るとき万葉集の「陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)」この草原(かやはら)は萱のことではなく地名であり港のことだと自分は解明した、なぜなら塩崎まで海になっていてそこに船着とありそのすぐ近くまで津浪が来たからである。そこは低い所でありそうした奥まで入り込みやすかったのである。
烏崎から船が津浪で六号線まで流されてきたことには本当に驚いたのである。
そこが万葉時代は海であり平安時代あたりまで船が行き来していたとなる
それで市庭(いちば)という地名も残っている,市庭とは古くから日本では市がたつ場所だった,だからなんらか商品の売買があったとなる
そこが真野の草原(かやはら)として地名とは断定できない,石巻にも萱原という地名がありそこが江戸時代からこの歌の場所だとされてきたからである。
その後の考古学の発見で南相馬市の鹿島区の真野が有力になったのである。
海を視点にして見ることが歴史的にも弱いのは海は何も残さない,そこで戦争があっても船は海に沈んでしまう,すると証拠がなくなる,それで最近は海にもぐり沈んだ船を探している,モンゴルの船も沈んだし太平洋戦争でも沈んだからである。
船はそうして証拠を残さないから海の視点から見ることがむずかしいから海はないがしろにされる,陸だったら小さな古墳でも残っていてここで確かに死んだ人が埋まっていると見れるからである。海だと海には何も残らないから歴史として遺物が残らないからただ想像力の世界となりそれが架空の世界ともなり認められないのである。
推理ドラマでは常に証拠を見せろとなるからだ,証拠がないといくら推測で言っても裁判でも負けるからである,だから海からの視点はないがしろにされてきたのである。
それで網野善彦とかが海からの視点で歴史を見直したのである。
船というとき船が単体であるわけではない,船を航行する技術とかそれを作る技術とか材料とかそこに波及する技術は多様なのである。
それは車でも飛行機でも同じである。それは政治的にも様々なものに影響する
エジプトではナイル川があり船の運行がしやすかった,するとあれだけ大きい王国でも川で結ばれたということがある,ピラミッドは川に通じていたともなるからだ
船の木材はレバノン杉が必要だというときそこに外国まで広がる貿易が必要になる
船を作り運行することはまた方向とかあり星座に通じる天文学とかが必要になる
羅針盤などがそれで中国で発明された,そして船によって大航海時代が作られたのであるその時オランダの風車の技術が船作りに応用されたのである。
日本では船の材料は山で供給されるから船木山とかあれば船に使用した木材を取り出したやまだとなる
●網野善彦の海民から見直す日本の歴史
網野善彦の農民だけではない海からの視点から日本の歴史を見直したことに評価がある
北条氏は津軽から若狭までの要津にをほぼすべてのその直轄下に置く一方、湊々浦々の
「大船」に過所を発給し,その直属の廻船として海上交通を支配した(日本社会再考-海民と列島文化)
この意味が良くわからないが過所とは許可証のようなものだろう。
そういう文書が残っている,大船という地名が鎌倉とか大船渡とかあるがここにもあった製鉄跡の東北電力がある所が大船という地名なのである。今は使われていない
ここで生産された鉄が運ばれたから大船なのか,鉄が運ばれたというとき船で宮古から浪江の請戸湊に運ばれて葛尾村で精錬されて葛尾大臣が富を築いた
鉄を運ぶとして重いから船が有利になる
海人などの長の立場に立つ人は刀禰(とね)と呼ばれていた(日本社会再考-海民と列島文化)
すると利根川が刀禰である
海人は海だけではない川にも通じて支配したのは交通ができたからだとなる
バイキングでもセーヌ川をさかのぼってパリに攻め入ったからである。
海と川は一体化しやすいのである。オランダが発展したのはライン川の出口の河口にあり海に通じていたからである。物資の集散する場所だったのである。
そういう地の利から小国でも貿易が商業が発達して富を築いたのである。
11世紀後半からの院政期には紀伊半島を中心に東は東国,東北、西は土佐、九州にいたる太平洋の海上交通が安定した航路となり活発な船の往来があったことは確実に証明できる
伊勢志摩の海民的な商人,回旋人はその広域的な海上交通を通じて根強く強い生命力をもつ自治都市(公界」を育てあげたのである
(日本社会再考-海民と列島文化)
移動しつつ各地に定着していった,綿津見系と宗像系という二大海人を想定する
この辺で神社として多いのが綿津見系である,宗像系ではない,それから熊野神社も多い八竜神社も多い,これは海と関係した神社なのである。
『長野県史 通史編 1 原始・古代』(長野県編 長野県史刊行会 1989)
p414「安曇郡」の項に「安曇の地名は海人の統率者だった安曇氏の定着したところともいわれ、安曇郡の中央にある延喜式内大社の穂高神社(南安曇郡穂高町)は海神である綿津見命(わだつみのみこと)を合祀している。」
こうして海人族が長野県のような山奥まで入ってきて定着しているのである。
熊野神社が多いのと鈴木の姓がこの辺などで多いのは熊野系統なのである。
渡辺党というのもありこれも粋郡系統でありこの辺に多いのである。
そして熊野系統は南朝方についたというとき海人を味方にして海運をにぎり海を支配しようとしていたのである。
この辺の歴史でももともと相馬氏は北朝であったが海に海岸に館を置いていた豪族と相馬氏が進出してきてそれらのものが抵抗して苦戦した
なぜなら小高でも蔵院とか湊があり船があまたあり海運の拠点ともなっていたからである今回の津浪でわかったように小高の城近くまで津浪が来ていたからである。
そこは船の出入りする物資が流通する港だったのである。
それから相馬氏が高平に進出して西殿とか古屋敷とか地名が残るように相馬氏でもみんな一体でなく争うこともある,そこで海側を支配していた泉氏と対立した
泉廃寺跡は泉間が跡として知られ古代からかんがが置かれていた,その延長として中世までその機能が港があり海運をになっていた
13世紀後半から15世紀と17世紀前半の時期に変われるが多くの舶載陶磁器や国産陶磁器が出土した
河川交通と海上交通の結節点に位置して中世を通じて流通にかかわる遺跡だあった可能性が高い
古代行方郡家が置かれた新田川流域,泉地区は中世において地域支配の中核であり在地領主の屋敷地が鎌倉時代に作られた
泉観音堂に安置された一一面観音像菩薩立像から「弘安六年一二月・・」と記されている胎内銘が確認されている(原町市史)
この高平地区で南北朝の時代争いがあったのは相馬氏が北朝であり海側の港を根城にしていた人達,相馬氏でも分裂している場合があり対立した
西殿という地名はそこに館があった,でも海側にも館があり争いがあった
南朝は海人を味方にして勢力をもっていた,日吉神社もまた南朝方でありそれで霊山が炎上して落ち延びたとき鹿島区の真野に逃れたのである。
その逃れた系統に海人系統がまじっていた,それで烏崎にも住んだのである。
烏崎では鎌倉時代にすでに岩松氏が船でついたという伝説がある
これは磐城から来たといわれる,何か南朝と北朝の争いで混乱していたが相馬氏は先は北朝だったのである。
そして熊野神社系統も南朝だったのである。海の支配権は南朝がもっていたのである。
相馬市では磯部館があり佐藤氏が支配していた,海から急襲されたとかの言い伝えがあり海を通じての興亡があったとなる,後に佐藤氏は相馬市の道の駅にある鬼越館に移ったのである。それは津浪が来る前だった,だからこれも不思議だと思う
中世の磯部館の海側から移転は慶長津波が関係していたのか? (伊達氏もかかわり中村城移転は相馬氏の支配を確立するため)
●津浪が語る昔の地形
今回の津浪では古代にさかのぼり地形が明らかになった,海だったところが本当に海になったのである。
それで大内の古い地名のそが船とか塩崎の船着や市庭という地名が現実を反映したものであり地名の化石であることを実感した
地名はそれほど古い歴史の痕跡だったのである。
曽我船とは船がそこをさかのぼっているという意味である。
そういう地名がつくのはいつも船がさかのぼってくるからこそいつもそういう船を見ているからこそそういう地名がついた
たまたま来るのではない,日常的に来ていなければそういう地名はつかないのである。
そして津浪が来た到達点からみると鎌倉時代の中世の板碑がある高平を見るとすぐ近くまで津浪が来ていたし鹿島区だと田中城は古い城だがそこも近くまで津浪が来ていたのである。だからその位置が地理が歴史を語っていたのである。
田中城は湿地帯に囲まれ守られていた,だから昔は海というより湿地帯になっていたのである。高平では屋敷があったのは西殿でも津浪が来ない場所である。
だから津浪の来た場所は湿地帯で人が住みにくい場だった
1611年12月2日(慶長16年10月28日)に慶長三陸地震があり津浪があった
15世紀と17世紀前半の時期に変われるが多くの舶載陶磁器や国産陶磁器が出土した
慶長時代までこうした貿易が行われていたのである。だからその時まで小高でも原町でも鹿島でも磯部でも港を根城とする土着勢力があり相馬氏はその後に入ったから対立した
そこで争いがあり海老の大工が大原の相馬氏と関係した伝説が残っている
それは相馬氏が中村に城を天守を造るとき何か抵抗した
その理由はわからないが津浪も関係していたのかもしれないと考察した
何か異変があり相馬氏の命令に従うことを拒否したのである。
そこで板挟みにあって大工が苦しんだ伝説だったのである。
時代の中で争いの中で必ず苦しむ人がでてくるのである。
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高平の中世の石塔群から見て津浪が来た距離が鹿島区の田中城からの距離とほぼ同じだというのも不思議である。
何かここに因果関係があるのか?
南相馬市原町区高平の五輪の塔の謎 (南北朝に由来して西殿は相馬氏の館があった所)
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