2018年03月26日

鉄道員(ぽっぽや)の映画と無人駅


鉄道員(ぽっぽや)の映画と無人駅

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この映画は国鉄時代のものであり国鉄時代を知らないと理解できないだろう。
駅が人情の駅になっていた,それはそこに人間がいたからである。
国鉄時代という一時代があった
国鉄で働く人が地方でも多かった,国鉄で働く人も地方では実際は恵まれた人達だった
近くにも鉄道工夫をしていた人を知っているし国鉄職員だった人も近くでいた
それは国鉄時代はどこでもそうだったのである。
小学生の時親が鉄道に勤めていた人が鹿島駅でも今の駐車場になっている所が官舎になっていたのである。

鉄道はそのように働く人も多いしそれで社会党があってそれは国鉄の組合をバックにしていたことでもわかる,それだけ国政を左右するものですらあったのだ
だから中曽根首相の時民営化するとき反対したが実はその時は高度成長時代であり
民営化するにあたり退職した人達は労働組合で運動して退職しても困らない金をもらったのである。それは高度成長時代の恵まれた時だったからである。
それだけの資金を出す余裕があったのである。
そして社会党自体もなくなったのである。

つくづく国鉄は一時代を築いたのでありその時の物語だったとなる
自分は蒸気機関車で原町の高校に通っていたがその時あまり鉄道に興味がなかった
だから記憶があまりない,トホネルをぬけるとすすけたとうことはあった
鉄道は今の感覚とは違う交通の要であり大動脈として日本全国に活きたものとして縦横につながっていた,それは血管のような働きをしていたのである。
鉄道の時代は明治時代からであり長いのである。

ただ国鉄時代のことがわらないとこの映画もわかりにくいだろう。
今の人には理解しがたいものともなる

しかし、民間では大手企業でもたくさんの募集があるのに、国鉄職員採用の就職情報が高校に入ってこない。当時は「国鉄一家」と呼ばれていて、いわゆる「コネ」がないと就職できないと言われていた。実際は「局報」と呼ばれる国鉄内の新聞に職員採用の募集が載っていることが多く、一般には知らせることがあまりなかった

まさに「国鉄一家」であり強いつながりをもっていたのである。
鉄道病院が仙台にあり全国にあったことでもわかる
鉄道一家として病院ももっていて支えていたのである。

国鉄というとき最初は炭鉱があり石炭を運ぶものとして鉄道があった,貨物輸送が主だったのである。北海道などはほとんどそうである。石炭を運ぶ貨物輸送のために鉄道が作られたのである。
つまり乗客を運ぶというよりは石炭などの貨物輸送のためだったのである。
それだけ車がない時代は輸送は鉄道に頼っていたのである。
子供のとき貨物の車両を数えていた,それだけ長い貨物列車がいつも通っていたのである何かその辺が今の鉄道とは違う,今のロジステックであり社会の縁の下の力持ちのような役割を果たしていた

ともかく鉄道の歴史は長いのである。明治からだからすでに150年とかなる
だから鉄道に愛着が生まれのも当然だとなる
鉄道には鉄道員だけではない代々働いた人達がいてその人たちの汗と涙もしみついているともなる
それが鉄道員の映画にもうまく表現されていた
最後はホームに雪にうもれて死んで一両の車両で棺が運ばれた
駅には何か伝説にもなるような幽霊が出るような古い歴史がある

結局この映画を見て無人駅と比べると駅長がいてその駅長が主人公なのである。
そこには人情味がありストーブでみんながあたたまんていたり人情がある
人の情が伝わる空間だった,人の情がしみこんだ空間だった
それで駅前の食堂でも今とは違っている,駅前がにぎわっていたのである。
駅の延長として駅前の食堂もあった

無人駅で自分が経験したことはそこに無機質な空間と化している,すべてが機械化自動化している,すると主人公は誰なのか?ロボットなのかともなる
そして将来的には駅には人がいなくなる
ロボットが送り迎えするのである。果たして人はそういう世界でいいのかともなる
その差があまりにも大きい,小さな駅に駅長がいてその駅長が物語の主人公になる
今やその駅長も駅員もいない,主人公は機械になりロボットになる
そんな世界に人間は耐えられるのか?それはどこでもそうなりやすいのである。

別に鉄道員だけではないのである。人間の一生は働くことにするとそこで費やされた時間が人生になる,だからそこに仲間がいてそこで働いた思い出が人生になる
それは鉄道だけではない,倉庫係としてフォークリフトを使い働いていた人が癌になり死ぬというときもう一度仲間と倉庫で働きたいというのもわかる
それは鉄道員と同じ心境なのである。
なぜならそれが人生だったからである。人生の愛着がそこにあり遂にそこで死ねば本望だったともなる

駅とか鉄道は何か伝説にもなるような場になっているのか?それはそこが出会いと別れの場であり人間的なもの情が通う場であり人間的なものがしみついているからである。
それが機械化自動化されるときそういう人間的なもの極力省いてしまう
人間はいらないんだとなる,それがコスト的にもそうした方がいいとなる

この映画の鉄道員は妻をなくした,子供もいなかった,何か淋しい,そこで誰かが幽霊が死んだ子供が成長して女高生になり鍋物の食事を作ってくれる
何かそれが自分も家族がみんな死んでそういうことをしてもらいたいなとなり共感する
それは妻をなくした人がいて今でも妻を思っていることを知っている
その人も一人で暮らしているからである。
この映画にはこうして共感することが多い,その気持ちがわかる
ただあまりにも感傷的に作られているとも思った
そんな鉄道員が現実にいるのかと思う,それほど鉄道一筋の人がいるのかとなる
自分が鉄道で旅しても駅員のことをこんなふうに見ていない
ただ通りすぎるだけだともなる

実際に自分は鉄道の旅が長いから鉄道に愛着がある,それはただ乗せられたものとして鉄道を経験していた,でも乗せる方として鉄道は経験していない
この映画では電車に乗せているのは機械ではない人間なのである
だから人間が人間を運んでやっているということで感謝していると言う人がいた
でも電車に乗せられる人が感謝などしないだろう
自分も全然していなかった,それはなぜか?
人間ではなく機械が運んでいるという感覚になるからである。
こんなに人間が主人公になっていることはないからだ,それは今の社会はそうである。
人間がこれほど主人公になることはない,人間味のない情のない社会である。
金だけが頼りともなり人間は非情化している,人間の心は情は通わない社会になっている便利でいいのだが反比例して人間の情は失われるというのも人間を幸福にするのだろうか?

そうはいっても人間は技術が進歩することがいいことだし追及してゆく
ますます鉄道でも新幹線になり早くなりゆっくり見送ることもできなくなっている
新幹線だとそこには人間の情をはぐくむものがないのである。
ただ一地点から一地点に早く移動する機械でしかないのである。
それは人間が運んでいるのではない,機械が自動化して運んでいると同じなのである。
そこでは人間的なものが余計なものとして排除されているのである。
ただ技術とかは人間の幸福など考えないない,人間の幸福は技術とか科学の進歩と比例することはないのである。
でもそういう情もない世界に人間は生きたいだろうか?
そういう疑問が無人駅で案内して感じたのである。


消えた鉄路

北の果て一本の線路が通じている
それは人と人を結ぶ道路
それははるか遠くまで通じている
駅には駅長が待っている
そして一両の車両を見送る
風の日も雨の日も雪の日も
一両の電車は客を乗せ走り
人と人をつなぎ運ぶ
駅には雪にうもれても
あたたかい灯がともっている
それは人間のあたたかい心の灯
しかし遂にその鉄路も消えた
その鉄路は荒野に帰り雪に埋もれる
その駅も駅長のいたことも忘れられてゆく
それが人の世である
でも聞こえてこないか?
ぽっぽっと笛の音が
辺りにひびきわたる
それは幻覚なのか
一両の電車が走ってくる
何か人間のように懸命に走ってくる
そしてそこに人間の駅長が待っている
手動で操作して電車を迎える
そこには人間がいる
機械ではないロボットが待つのではない
人間が待っている,人間が見送る
人が人を待ち見送る駅
そして鉄路が消えても
そこにいた人間を思い出す
機械やロボットは道具である
主役は人間なのだ
主人公は人間なのだ
その人間がいなくなるとき
機械や道具は必要なのか
人間いてこそそこは活きる
いつまでもそこにいた人間を思い出す
またそこに人間はいつまでもいたい
人間が仕事していたのだ
機械やロボットではない
人間の一生がそこにあり
人間の喜びや悲しみとともに
鉄道はあったのだ
鉄路は消えても人間の記憶はとどまる
無人駅には人間がいない
だから人間が主人公ではない
だから記憶にもとどまらない
もともと人間がいなかったから


二両の電車

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駅淋し二両の電車や眠る山

冬の山二両の電車や暮れてゆく

冬の山二両の電車浪江まで

しぐるるや二両の電車あわれかな

山に没る冬陽や二両の電車かな

.................

なにかこうして二両の電車が一時津浪で途切れたとき相馬市と原町を行き来していた
それも不思議な光景だった,なぜか二両と四両と六両とかで感じが違ってくる
二両となると人間的になり一両だったらそれは本当に人間に見えるのである。
それでこの映画では一両の電車であり哀愁がにじみでていたのである。
急行とか新幹線になるともう人間的なものを越えて哀愁などなくなるのである。
機械化は何か人間の情を抹殺してゆく,それは老子の時代から言われてきたことである。文明は人間的なもの人間の情を抹殺してゆく,文明は何でも便利でも効率的でも人間の情はそこで失われてゆくのである。
自分は車には鉄道とは違って人間的なものを感じないのである。
なぜ鉄道にはこうして人間的なもの感じるのか?
鉄道の歴史は古く人間の情的なものが結びついているからだろう。
ただの便利な物でも人間でも運ぶ道具ではないものとなっていたのである。
鉄道というのはそれだけ人間の歴史とともにあったからだともなる
150年もあればそうなる,ただの機械とか道具ではないものになっていたのである。

枯野(人間的な二両の電車)



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