2018年04月03日

外国人観光客が増えた問題 (日本の情緒が破壊される)


外国人観光客が増えた問題

(日本の情緒が破壊される)

地域の住民にとって必ずしも歓迎されるものではない。はっきり言ってしまえば、観光客というのはそこに根ざして生活する人間にとっては、根源的に厄介者であり、迷惑以外の何ものでもないのである》

記事は、問題の原因が日本を訪れる観光客が多すぎる点にあるのではなく、「観光客が東京圏、関西圏といった大都市圏に集中しすぎている点」にあると指摘する。

通勤客で混み合う電車に大きな旅行バックを持った外国人が乗ったり、路線バスに大勢で乗ってきて病院へ向かうお年寄りが席に座れなかったりなど、日常生活と観光客との摩擦が起きています。


外国人がカプセルホテルに泊まるのが理解できる,日本はホテル代が高すぎる,自分は旅をして一番困ったのはホテル代だったからである。
カプセルホテルは地方にはない,すると地方の方が宿泊代は最低でもビジネスホテルでも五〇〇〇円以上かかる,すると宿泊代に金をとられて他にしたいことができないというのもわかる
交通費も日本は高いから移動するのは東京と大阪だというのもわかる

外国では安いホテルが多いことなのである。ホテルがそもそも多いのである。
パックパッカー用とかユースホステルも多い,そこは老人でも泊まっているし安いのである。
スイスなどホテルに泊まったら高くて旅行できない,そうしたパックパッカー用の宿が多い、ただなかなか外国人は慣れていないと泊まれないのである。
自分はパリの東駅におりて安宿を探した,やはりあったが泊まりにくかった
自分だけではないパリを旅行していた日本人の若者が夜まで安い宿を探し歩いていたのである。

パリにまで安宿探し落葉かな

こんな句にもなる,パリとか観光の都市でありヨーロッパは本当にホテルが多いし安宿も多い,だから観光しやすいのである。飛行機代とかかってもホテル代が安いと金持ちでなくても旅行できる,自分は50すぎてパックパッカーした
金が意外とかからないなと助かった,その時は自分は金の余裕がなかったからだ
つまり旅行で一番金のかかるのはホテル代だからである。
それで外国人が日本は特にホテル代が高いから若い人などはホテル代をまず安くしようとするのがわかる
ホテルは寝るだけの場所だとするのもわかる,日本では旅館だと食事つきとか何か高く設定されているのである。ただ泊まる場所として提供していないのである。
だからこそ民泊が生まれたのである。

ともかく旅と宿は深い関係がある,宿は旅情を作り出す,その点江戸時代の旅は宿場町があり人と人の交わり出会いがあり分かれがあり情緒があった
それは歩いて旅していたから余計にそうなった
車だったらそうした出会いとか分かれはないのである。
道を旅しないからそもそも分かれるという感じもなくなる
なぜなら分かれる道が分去りとして地名化しているからである。

京都で観光公害になるというのもわかる,京都に外国人が集中すればそうなる
なにか外人に見に来たのかとさえなるだろう。
嵯峨野辺りでも修学旅行生が来ていてうるさかった,それが外国人がおしかけたらさらにうるさいとなり情緒もなくなる
京都に住んでいる人の日常生活まで影響する,観光公害になるというのもわかる

ただ自分でも外国を旅行したとき慣れていないし貧乏旅行者だから迷惑をかけた
必ずどうしても外国では迷惑をかけやすいし観光客は異物になりやすいのである。
特に若い人のパックパッカーとかなるとそうである。
若い人その国の文化とか歴史とか情緒を楽しむというか学びに来るというのではないからだ,ラーメンだけを食べに来ている若者もいたからである。

東京と大阪に観光客が集中しているのも問題である,もっと地方に田舎に外国人を呼び込むべきだというのもわかる,ただ田舎は外国人に慣れていないし言葉もわからない
それで長野の白馬でおばちゃんが外国人とだきあって別れを惜しんでいた
英語も覚えたというしやはり生活するために必死になるとそうなる
でも実際は嫌なのである。沖縄でも実際は日本人が来ても迎えるばあちゃんは表面は歓迎しているが嫌だと言っていた
ただ金のためにそうしているだけなのである。

やはり外国人でも数が多すぎると問題が起きる,数の問題なのだろう。
情緒がなくなる,京都辺りだと着物姿の女性が歩むのににあう通りがある
でもそこを外人ががやがや歩いていたら情緒がなくなる
すでに情緒では日本はいたるところ失っている
若い人はやはり何か行動的であり情緒を楽しむということがしにくい
それは日本人でも同じである。
猪苗代湖でも静かな所があるが水上ボートの音が凄まじかった
それで情緒が破壊されるのである。
それは日本全国で起きていることである。

例えばそもそも現代ではそうした情緒は車社会で破壊されている
江戸時代のように歩いて旅していればその旅人は一つの絵になっていて広重の浮世絵のように残される,今はそうした情緒がそもそもなくなっているのである。
それに外国人が流入してくるとますます情緒はなくなる
何か自分は異常に情緒とか景観にこだわる
この辺は津浪や原発事故で土が大量にとられている,そこで土がとりだされたところがむき出しになっている
それをいつも見ているから嫌になる
そして八沢浦が元の美しい入江にもどったというときそこに住んでいる人にしかられたのは当然だった
そこでは津浪で死んだ子供を泥を掘り出して探していたからである。

ただ人間は意外と景観に無関心なのである。景観は金になるわけでもないからである。
森でも木材の資源としてみていて森全体があることを価値あるものと見ていないのであるだからこそヨーロッパでも森が消失してゆく,世界的にそうである
人間は何でも経済的観点からしか社会を見ない,でも情緒となると経済的観点からだけでは計り得ないものとしてある
その情緒がなくなればその価値もなくなり,京都などは古都でありそうなるのである。
だから今は旅行しないからいいと思った,旅行する気力もなくなったしまたあんなに外国人もいるのも嫌だなとも見るようになったからである。

京都なれ枝垂桜の優艷に夜もふけゆくや泊まる宿かな

京都はそこにいるだけで千年の都の中にいることになる,それは外人があれだけ多くなると情緒がなくなる
やはり数の問題であり限度があるということになる,観光都市ではあるがそこにも古都の生活があって成り立つ
でも寺でも観光収入で成り立つというのも実は批判がある
寺とは修行の場であり観光の場ではなかったからである。そこには本来の生活があって観光とは付随的にあるものが正常だからである。

posted by 老鶯 at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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