2018年04月17日

「農本主義が未来を耕す」宇根豊著を読んで・・・・ (原発事故で問われた農の大切さ、でも農民も金が第一だった)


「農本主義が未来を耕す」宇根豊著を読んで・・・・

(原発事故で問われた農の大切さ、でも農民も金が第一だった)

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仕事の相手としての生きもの(自然)との関係を意識していることです
それは近代化によって滅びてゆいくものの最たるものが自然だったからです

国益のために在所の人間と自然,人間と人間のつながりまで成長を求めるのはおかしい

農は食料を生産しているのではなく自然からの恵みをくりかえし引き出しているのに世間の人はわかっていない

農は過去から引き継いできたものを責任もって未来に引き継ぐことを重視しているのに
現代人は現世のことばかり考えている,それにこの継承は社会と共同責任を負うべきではないか

農は自然からの恵みの一部(食べ物)をカネに換えるが生き物,草花,風景など食べ物以外の恵みを繰り返し持続する限りにおいてそれをカネに換えることなく無償で国民に提供しているのに気づいてもらえない

田んぼが荒れればその一帯は完全に百姓の手から村の手から離れてゆくのです,人間と自然と向かい合う場が消え自然と人間の共同体が消えてゆくのです
もう一つ大切なことは自然への情愛と村の情愛が滅ぶのです


震災6年後にもどった故郷の景色 (ふるさとの秋(詩)

田んぼが回復しないと復興を感じないのはなぜか? (田んぼと蛙は生態系で一体化したもの)


この本は自分の考えてと全部が一致していた,農本主義とかむずかしい思想のことではない、誰が読んでもわかりやすい,ほとんど知識が必要ないのである。
なぜこの本が手にとるようにわかったのはこの辺が現実にこの農が人間の基本となるものが原発事故で破壊されたからである。

田んぼが荒れればその一帯は完全に百姓の手から村の手から離れてゆくのです,人間と自然と向かい合う場が消え自然と人間の共同体が消えてゆくのです
もう一つ大切なことは自然への情愛と村の情愛が滅ぶのです

まさに現実としてこの辺はそうなったのである。今は避難区域になったところはそうなっている
でもそもそもこういうことは津浪や原発事故前から農民自身がそうした生活を嫌がっていたのである。金にならない農業などしたくないとなっていた
それで農業していた親から農業だけはやるなと殴られたという話を聞いた
その子供は原発とか建築現場で働くことになったのである。

そして今になって生業が奪われた補償しろとか抗議している,そもそも農にかかわる人達でも農を生業を大事にしていたかその価値を重視していたかとなるとないのである。
そもそも原発事故になる前にも農業をやめたいとなっていた,だから事故で補償金もらえればかえって都合いいとかまでなっていた
後継ぐ人もいないからこの際補償金をもらってやめた方がいいとなっていたのである。
すでに漁業で東電に政府に補償金をもらって海も売り渡していたことでもわかる
漁業も農業と同じであり金にならない,跡継ぎがないとかでやる人がいない
すると東電に補償金をもらって生計が成り立つ,船主などは特別補償されていて
原発御殿が建っていたのである。事故後も船主は格別であり補償金が海が汚染されたといっては抗議すれば確実に増額されてゆくのである。
だからいち早く新築の家を建てたのはと船主だったのである。

生業(なりわい)とは米の生産だけではなく,生活全般なのである。農業とういだけではない,昔の自給自足の生活はそうだった,納豆まで家で作っていたからである。
昔の農家は自給していて何かを買うということはまれだったのである。
だから何かしら絶えず料理するにでも水は井戸だし薪を燃料にしたり炭もそうだし自給自足を基本としていたのである。それが生業(なりわい)だった
そしてその生業を奪われたから補償しろと今になり農民でも叫んでいるのに違和感がある現実に何もすることなく仮設に住んだ人達はパチンコ通いだったのである。
それで回りから批判された,一部は仮設の前で畑を作っていた人はいた
ただほとんど毎日パチンコ屋通いであり昼間から酒飲んで何もすることがなくなったのである

生業より,金をくれ,一億円くれたら土地も生業もいらないよ

前からこうなっていたのである。生業といっても今は何かあいまいだからである。
原発事故でそれが補償金要求するのに見直されたのでありもともと一億円もらったら原発事故無くてもそういうものは価値がないから売り渡していたのである。
畑や田んぼがを道路になったり住宅地になって金になればいいと常に言われていたからである。

だからこの本で農本主義のことを熱く語るのは心から理解できる,でも肝心のその農にたづさわる人がそうだったのかというとそうではないのである
やはり農に関してはそれにたずさわる人だって田舎でも少ないし第一田舎に住んで農のことがわからない人が多いのである。
自分でも農業がわからないのである。ただ自分は自然と一体化するアイディンティティ化することを詩など書いてきてしてきた
それも農が基本にあって成り立つものでもあった

だからこの本で蛙でも雀でもなんでも自然と一体化して農があり農民にはそうした生き物への愛情があるというのには共感する
つまり農とは自然と密接に結びついているから自ずとそうなるのである。
生き物と蛙でもなんでも直接仕事の中で接するから愛情が自ずと生まれる
ペットでも犬でも猫でも直接接していると愛情が生まれる
なんか淋しいから猫を飼ってそれを経験したのである。
だから津浪や原発事故以後,蛙がいなくなり鷺もいなくなった
蛙の鳴き声も聞こえなくなったし鷺も飛んでいなかったのである。
そして蛙の鳴き声が夜空の星々に木霊したとき復興したなと感じたのである。

ケロケロケロ、田んぼがもどった、ケロケロケロ
俺たちはここに住む、俺たちの生きる場がもどった
ケロケロケロ、うれしいな、仲間ももどってきた
みんなで思い切り合唱だ
夜空には星が一杯輝きここが俺たちの生きる場だ


それは白鷺が五〇羽くらい近くの巣に集まった時もそうである。
蛙でも白鷺でも田んぼがあってそこに蛙などの生き物がいて生きることができていたのである。自然と密接に結びついているのが農なのである。それは漁業でもそうである。
そして一番美しい光景は人間の営みが自然の中にあり調和していることなのである。
それは農だけではない,例えば海を見てなにも見えないと淋しと思う
でも船が航行していると海も活きて見えるのである。
だから農だけが自然と調和するということではない,風力発電などは風の力で回り電気を起すとして自然と調和しているのかともなる
でも森とかには風力発電は調和しない,ソーラーパネルだってそうである。
科学技術はなんらか自然を破壊するものなのである。

そしてこの本の著者は放射能に汚染された米を食べるべきだという,それを食べることによって農が守られ共同体が守られるからだという,そういう観点から汚染された米を食べるということをしている人はいない
でも農が共同体を維持していたときその米を食べないことは維持できないことになるからだ,だから老人などは食べるべきなのである。
ここでは放射能に汚染されることよりそうした共同体の維持の方が大事だとしているのだそのことは飯館村などを見たらわかる,そこで学者が放射能の除染して田んぼの表面の土などをとる必要がなかったとして自ら飯館村にすみついたのである。
自分も飯館村の惨状を見たら愕然とした,土ははぎとられて田んぼも畑もない,ただ放射能に汚染された土のフレコンパッグとかソーラーパネル工場とかになる
景観が壊されたのにはがっかりしたのである。
飯館村はまさに生業(なりわい)が根こそぎ破壊されたのである。
山菜をとって暮らしていたのが普通だったし所得が低いが自然との共生がまだあったからである。
ただ今では補償金で村は二分されているし人はほとんど住んでいないのである。

なぜこれほど補償金のことしか原発事故以後話題にならないのか?
もっとどういう暮らしがあったのか語られるべきなのだが語られない
ただ生業を返せというがそれ以上に補償しろ金をよこせとかしかない
そもそもそんなに生業を大事にしていたのか,そこに価値を置いていたのか?
それ自体が疑問なのである。
やっぱりそんなことより金だよというのが農民が求めていたものだともなる
第一農民というが田舎で農業している人は一割にもみたない,農業のことを知らないのである。ただ都会と違うのは農業しなくても田んぼや畑がありそれを見ているから違っているのである。別に農業しなくてもそれで農業と結びついているのである。
だから津浪や原発事故以後田んぼがなくなったから田んぼがない田舎は田舎なのかと思ったのである。

いづれにしこの本は深く共感した本だった,自分の追及してきたことでもあったからである。だからさらに検討してゆくことにした

posted by 老鶯 at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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