2018年05月11日

商売の基本は変わらなかった (三方よしとは「売り手よし、買い手よし、世間よし」)


商売の基本は変わらなかった

(三方よしとは「売り手よし、買い手よし、世間よし」)


中国の大富豪の劉智健(リュウ チーチェン)という人物が出てきて、こんな言葉を言っています。

「ビジネスの成否を分けるのは、長期の視野をどれだけ持てるかだ」

石田梅岩は、真の商人をこのように定義しています。

実の商人は、先も立ち、我も立つことを思うなり

まず、「実の商人」というのは、真の商人という意味です。

そして、「先も立ち」というのは、まず最初に、お客さんのことを第一に考え、行動することで、お客さんの信用、信頼を得られ、そして、その結果として、「我も立つ」、つまり、自分のビジネスが上手く回るという状態を作ることができる人こそが、真の商人なんだという意味です


自分の場合は銀行でこれを感じた,銀行となるとまた商売でも違うが金融商品の種類が多いのである。とても個人的に選べるものでもない
すると選んでくれる人が客のためにしてくれるのが商売だとなる
でも投資信託がそういうものではない,客のためにそもそも仕組まれたものでもない
証券会社と銀行のために仕組まれたと見る方が適切である。
その仕組みがあまりにも複雑でわからないからである。
つまり証券会社や銀行はその仕組みを知っているが客は知り得ようがないのである。
この知識の格差があまりにも大きいから客にとっては不利な商品なのである。

証券会社や銀行がそうしてもうけやすいものだから投資信託を売り込むのである。
投資信託も種類が多いからその中にもうけられるものがあることもいえる
でも証券会社と銀行の勧めるのは客にとってわかりやすいものである
オリンピックだからJリートがいいとかロボット産業やAIはみんな投資して上がっているとかその内容がわかりやすいものなのである。
でも実際にもうかる投資信託は目立たないし知られないものだという
これもまたなぜそうなっているのか?
そこに金融商品の複雑さがあり素人にはわからないものなのである

そのことを一番自分が経験したことで実証していたのはリーマンショックの前にもっていた株が元にもどったときそれをそのままにしていればかなりのもうけになった
でも銀行の営業の人は投資信託に回したのである。
それは客のためではない,銀行がもうけるのには投資信託がいいからである。
それと営業者にはノルマが課せられているからである。
客のことは考えない,考える余裕もないのである。
ノルマが課せられていると頭の中が投資信託を売るとういことしかなくなるのである。

金融商品というのは物を売買するのとは違うがやはり三方良しという近江商人のやり方が商売の基本として今も通じている
だから社会がこれだたけ変わっても基本的なもので変わらないものがあると思った
もちろん自分は商売について何か語れるものではない
あくまでも客として言っているだけである。

でも商売を考えると飲食業があるとする,これなどはまずごまかせない,料理はごまかせない,値段どおりなのである。
高ければ材料もいいものを使っているし安ければそれなりのものである
これは料理をだす方にしても食べる方にしても納得できるものしかだせない
安いのにいいものを期待するのは無理である。
第一材料費を安い料理にはだせないからである。
サシミ定食を見たら千円くらい材料費がかかっていた,それは日頃買い物しているから察しがついた,すると1700円だったがそんなものだろとなる
ただ自分はメニューを見ないで本当は1000円だ思って注文したのである。
自分は千円以上のものはほとんど食べていないからである。

三方良しというとき客にとっていいものは社会にとっても世間にとってもいいものとなるもちろん売る方でもそのために感謝されるともなる
銀行とか今まではそういうものがあったから地域に必要なものとして地方では銀行員はエリートととして扱われていたのである。
何か社会のためにいい,役割をもっていなければどんな会社でも存続できなくなるのが普通だろう,そういう会社は普通は淘汰される
だから銀行は今社会にとって必要ない,役割がなくなる危機にたたされている
自分たちだけの利益を計る,投資信託などをうりつけるのはそういうことになる

「ビジネスの成否を分けるのは、長期の視野をどれだけ持てるかだ」

これもそうだろう,今もうかればいいとなれば投資信託を売りつける,でも長期的にはどうかとなるとみんなもそれがどういう商品が気がつく,そしてなぜこんなものを売りつけたのだと銀行不信にもなる,信頼されなくなる
銀行は信頼が第一でもっていたからである。
石田梅岩は商人道を説いた,そういうモラルは職人道でも農民道でも江戸時代からあった農民道は二宮尊徳が説いたのである。
そういう日本独自のモラルがあって社会が成り立っていたのである。

それが明治維新になって西洋の思想が入ってきたとき混乱した
新しい資本主義がありそこにもモラルがあったとしても江戸時代からあったものにも習うもの継続するものがあったが見捨てられたということはある
明治維新後は日本古来からあったものを日本人は遅れたものとして見捨てたのである。
あまりにも西欧文明一辺倒になってしまったのである。
それが今になると日本の歴史を見直し古来からある日本の良さを見直すことが求められる時代となった
つまり外来の文化が入ったあとに日本では必ず国風文化にもどるからである
そういう時代の分かれ目として現代はある
それは商売だけではない、いろんな分野に影響しているのである。
医療の分野でも東洋的な医療を見直すとか西欧一辺倒の文化から古来からあったものを見直し取り入れるようになる
現代はそういう時代の節目であるがそこでやはりまた葛藤が生まれるのである。

江戸時代にあったものそれがみな遅れているものとして省みなくなった
そこに現代の日本の問題がある,別に西欧に習わなくても商人道でもあったのである。
それは西欧的な資本主義とはまた違うものなのである。
そのモラルは実はわかりやすいのである。法律となるとわかりにくくなるがそのモラルはわかりやすいのである。
法律も本当は基本的に人間の基本的なモラルを基にしている
嘘をつかないとか約束は守るとか人間として基本的なものを守ることである
それを法律でもなんでもあまりにも複雑にした結果,かえってモラルは荒廃したのであるその複雑故に投資信託でもかえって売る方が有利になりだましやすいともなるからだ

商人道であれ農民道であれそれは別に特定の職業のものだけではない,それは別に一般的に通じるものである。モラルはそういうものである。
ただ長期的視野をもてというとき江戸時代は有利だった
社会の大半は農民であり農民は自然とかかわり自然の中でモラルが培われたからである。その延長に商人もありえたからである。
農民はモラルを形成しやすいが商人となると暴利もあるからむずかしくなる
株ともにている,時代劇では悪徳商人はいるが農民に悪い者はいないとなるからだ
その商人にだまされるのが農民だというシナリオになっているからである。
長期的視野というとき林業でも木が育つには50年とかかかるとするとどうしても一代だけではない,長期的視野で仕事をしなければならない
そうした自然のリズムと合わせるから自ずと長期的視野をもつことになる
今はグローバル社会でもあり変わりすぎるから目前の利益にとらわれすぎるのである。
それがかえって社会のためにならないし客のためにもならないし結局会社のためにもならずとなり三方良しではなく三方悪しとなりやすいのである。



posted by 天華 at 08:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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