2018年05月23日

城の俳句二十句(九州中国関西東海道)


城の俳句二十句(九州中国関西東海道)


(九州)

晩秋や古木に日さし熊本城

晩秋に古木数本熊本城

湾の望み春の松原唐津城

春光や海の近きに福岡城

(山陰)

芒枯れ萩の城跡大ならじ

茶をたてぬ柳あわれや松江城

(山陽)

隠れ咲く椿や山城岩国城

花見客天守に上る福山城

春爛漫天守望むや白鷺城

春夕日船の往来明石城

(四国)

(洲本城)

花に月淡路の城の一夜かな

春の暮伊達氏の治む宇和島城

花めぐり城下に三日松山城

春の川遍路と歩み大洲城

(滋賀県)

秋の暮関が原近く彦根城


(和歌山県)

朝日さし白壁映えて菊花かな

秋日和和歌山城をたずねけり

秋の朝石段上る和歌山城

(大阪)

千本の桜咲き散る大坂城

燃え落ちる春の夕日や大坂城


(長野県)

晩秋や黒々として松本城

(東海道)

優艷に枝垂桜や吉田城

金の鯱夏の日射しや名古屋城

一夜城鋭く光る月をみる

海望み小田原城や花盛り

門多し江戸城跡や秋の暮


正岡子規の「春や昔十五万石の城下町」は有名である。でもこれは明治になって城を偲んだものとして作られている,なぜなら昔すでになっているからだ
城というのは意外と城があるとき城を俳句でも短歌でも漢詩にしても触れられない
ただこれも調べればあるのかもしれない,それを調べるにも大変だが俳句に関しても城の俳句でも城についての俳句は極まれなのである。

絶頂の城たのもしき若葉かな(蕪村)

これくらいしか目立ったものとしてわからない,ただほかにあるにしても目立ったものがない,ただこれは一つの研究テーマなのである。
城をいろいろふりかえるようになったのは明治以降なのである。
城があるときは城のことはあまり語られなかった?
ただ不思議なのは城は一番目立つものだから城に関するものを残してもいいように今では思う

國破れて 山河在り 城春にして 草木深し 杜甫

城は中国などでは庶民と一体化してあった,日本ではこれだけ城があるのになぜ城について俳句にも短歌にもなっていないのか?何かそこが謎なのである。
城の謎は江戸城というとき確かにその跡は残っているが日本の中心の城が何か何もない,石垣だけだというのも淋しい,江戸城は日本の政治を担った中心だったのかと疑問になるだろう,外国の人が来てもそうである。
外国では城というとき城壁からしてローマ帝国時代のものでも残っているからだ
石造りだから残ったともなる,日本の城は戦後新しく再建されたものがほとんどなのである。実際江戸時代から残っている城は松江城くらいでありあと三つくらいしかないという明治になったとき城は廃墟化したのである。

春高楼の 花の宴(えん) 巡る盃(さかづき) 影さして千代の松が枝(え) 分け出でし昔の光 今いずこ(土井晩翆)

城が廃墟化したからこの詩と歌が作られた,でも城があるときは城について何か目立って俳句でも短歌でも漢詩にもしていないとみる,ただこれは研究テーマだから他にあるのかもしれない。

江戸時代とか明治時代でも過去の俳句や短歌は当時の生活を知るものとして自分は見ている,貴重な当時の生活の資料なのである。

池田より炭くれし春の寒さかな 蕪村

ここでも池田とあるときその炭を作る場所を意識していたのである。それが江戸時代である,なぜなら狭い範囲で生活しているから生活で使用しているものはみなその産地が明確だからである。地球の裏側から来るのとは違うからである。
そして池田よりというとき池田に住んで炭を作っている人を意識しているのである。
その暮らしもイメージしているのである。

ここで俳句にした城には自分は実際に全部行っている,ふりかえると良く旅して回ったなとなる、ただその記憶があいまいとなっている
城の印象はいろいろある,萩の城はもっと大きいのかと思った、

関ヶ原で西軍総大将に担ぎ上げられ敗北、周防・長門の2国に減封される。その後、居城としてここ萩の地に新たに萩城を築城した

ここで苦しい生活を強いられてあとで徳川幕府に恨みをもつ明治維新で長州がその先導役となったとも言われる,ここを訪れたときの第一印象が芒の中に石垣だけがあるという何か無常を感じた,明治維新の中心となったと藩だと思っているから城も立派だと思うが
意外と小さいとか萩自体が田舎町だという印象になる
常に時代は錯覚しているのである。特に現代はドラマ化しているから時代をリアルに見ない,歴史の現実をドラマから小説家ら見ると歴史を見間違うのである。
それで司馬遼太郎が竜馬を小説化して英雄にしたてたと今では見直されている

やはり歴史はとにかくいろぽすわからなくても現場を踏むことである。
そこで感じるものがまず大事だとなる,秀吉の一夜城まで自分は自転車で寄ったことがあった,その距離は結構あってここがそうなのかと実感する
その時三日月が出て光ったとなる

城でいい城だと思ったのは和歌山城である。その時は秋であり朝に長い石段を上った
それが記憶として残っている,白壁が美しい城だなと感じた,その下で菊花展を開かれていたので菊がにあう城だと印象に残り思い出すのである。
人間は城があるとして昔をたどるとしても今はむずかしい
例えば吉田城は東海道にあるがここには市電で行った,そこは何か淋しい城であり城内に枝垂桜が咲いていた、でもここは東海道であり浮世絵にもあるように橋が有名であり
大名行列も通り庶民をその橋をわたるにぎやかな所だったのである。
市電で行ったときその当時のにぎわう姿を全く感じなかった
それはやはり東海道を旅していれば歩いてでもしていれば感じるものがある
東海道は混んでいるからもうその往時を偲ぶことはできないのである。

城は明治以降廃墟化して無常を示していた,城が江戸時代の象徴としてあったからだ
ただそれも明治になったとき逆に城を回顧するようになり桜を植えたりして公園化したのである,江戸時代が300年あり明治からすでに150年の歳月が過ぎたのである。
ただ観光するというとき城があり城を中心に今でも見ている
城がないとそさには歴史がないと感じる,ただ城は石垣だけが残っているのも多い
木造建築だから残しにくい,だからたいがい城は新しく再建されたものである。
でもその再建された城を見るとき博物館のように見えてしまうのである。
石垣だけになっているとただ無常を感じるのである。
だから石垣だけ残ってるとかえって歴史を人間の無常を感じるともなる
会津の城でも新しく再建されたが何かかえってそれが作り物のように見えてしまう
石垣だけだったら薩摩長州に滅ぼされた無常を感じるともなる
つまり現代は余りにもドラマの影響が大きすぎるのである。
ドラマとして歴史を見ているから本当の歴史のリアルなものとして見ることができなくなっているのだ。

城について語ることは尽きない,この俳句でも前に同じものを出している
ただ俳句は一句だけでは鑑賞できない,連作になると一つの文学として鑑賞できるようになる
観光にしても城めぐりをして全国の城を制覇するということが現代ではできる
自分は鉄道なら私鉄をのぞいてほとんど全線を乗った
城にしてもふりかえればもう90パーセントは回ったとなる
ただ旅でも歴史を深く感じることはつくづくむずかしいなと思った

彦根城が琵琶湖に近いということがわからなかった,なかなかこうして旅というのは見ないで終わるものが多い,後でそうだったのかと見る,それがインターネットで旅をふりかえるのには便利になった
彦根城は関が原の合戦で井伊家の赤備えで有名になり井伊家が築いた城である
ここの升形の旗印は野馬追いの旗にもある,ただそのルーツは定かではない
はっきりしているのは石田三成の旗印がかつて江戸時代にあった
それは万万とかでありわかりやすい,石田三成は鹿島の田中城に来ていた
相馬藩で親交があり三成の一字をもらって名前にしている藩主もいた
それで徳川家康からは相馬藩は敵対視されたが取りつぶしにはならなかった歴史がある。

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タグ:城の俳句
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