高平(タカヒラ)地名と貝餅地名の謎(他に曲田の由来)
名取(なとり): 「ナ」は古代語で「土地・地盤」のことで、また「トリ」は「洪水や津波などによる欠損や崩壊」を意味し、「ナトリ」とは洪水や津波で土地が削り取られた土地を表す。
平泉(ひらいずみ)
(1)「平」は斜めに平らな土地のことで、北上川氾濫原の平地、泉地
(2)方言「ひら」泉で、逆芝山の山麓の清泉
(3)伽羅御所などの奥御館の南隅に湧く平地の湧井
平安時代以降、とりわけ江戸時代以降の新田開発に
関係しているところばかりです
宮古島の平良市を調べて、「宮古島では、ピラは『坂』という意味の言葉だという。」(65頁)、「石垣島のコンピラは、
まさに坂で、 通称コンピラ坂と呼ばれていた。」、「いまはアスファルト舗装
されているが、 舗装される前、この坂を登るのは容易ではなかったと地元の
人はいう。」(同66頁)、石垣島の川平(かびら)は「海に突き出て崖状になった所であった。」(同67頁)、宮古島でも、「ひら」が崖として使われている、
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名取が津浪と関係した地名なのか?名取の被害も大きかった,そういう地形にあったのか?
平泉は平はやはり傾斜地であるがここでは斜めに平な土地としている,泉があるところは人が住むから多い,ヒライズミというときヒラ+イズミであり一体化しているところが地名としてある,ヒラタイというときまさにそうである。ヒラという地名は一語ではあまりないだろう
なぜならヒラはアイヌ語のピラ(崖)から来たというが本当にそうなのか?
もしそうだとしたら日本中がアイヌ語が基となりアイヌが住んでいてアイヌは縄文人だとなる,それは解明されていないし日本の地名をアイヌ語で解明することは危険なのであるアイヌと縄文人はまた違っているし縄文語とアイヌ語もまた違っているのだ
このヒラにしても日本語でちゃんとヒラク(開く)という動詞がある
日本では山が多いから傾斜地を開いて生活してきたのである。
野が傾斜地を意味しているのもそのためである。日本には大陸のような平坦な土地が少ないのである。
だからこそヒラタイというとき開くとタイ(平)が一体化しているのである。
そこに先人の苦労が言葉に残されているのだ
だから高平とは高いということがまずある,どうしてそこが高いのだろうか。
そこは低い場所としてしか見えないのに高いのだろうか?
高平という地名はまず傾斜地があり斜めに平な所があり開く,開墾する,開拓する,そういうことで名付けられた,順序として金沢の方の高台がありそこから斜めに平らな所を開いて人の住む場所が広がった,何故なら低い場所は日本ではほとんど湿地帯になっていたからである。川の側も氾濫するから住むに適していないのである。
だから新田川付近は住むに適していない,ただ桜井古墳のあるところは一段と高くなった場所だった,古墳があるところは鹿島でも寺内と小池であり高い場所である。
横手の古墳は低い場所にあるがそれは時代的には寺内小池の古墳より新しいのである。
ともかくここで引用した学者でもヒラをアイヌ語のピラ(崖)から解釈するのは危険である。縄文人とアイヌが同一民族だというということは証明されていないからだ
あくまでも推測だからである。
●貝餅地名の謎
「度重なる飢饉や旱(ひでり)の連続で人びとはみな飢え、路傍で餓死するものが続出した。食うものもなく、やせ衰えたわが子のためかい餅三個と先祖伝来の美田一枚を交換した故事を地名とした」(『医王山物語』)。
私が育った越中散居村ではボタモチを「かいもち」と言ってました
高平地区に貝餅とあるのは何なのか?
これも不可解である。貝と餅でありこれは単なる当て字ではない
ここの伝説では貝餅とは単なる餅のことであるという,餅ならわかりやすい
貝餅坂というのはこの伝説から生まれた
ただ貝というときカイがカウ(買う)からきているかもしれない,餅を買うとなればわかりやすいからだ,ここの伝説では餅三個と美田一枚を好感した,買ったということで買った餅が貝餅と当て字になったともなる
なぜここに貝がでてくるかわからないからだ
貝とつく地名は貝戸とかあり場所的にはいい場所ではない,ここで貝餅とあっても貝は関係ないかもしれない
気になるのは
私が育った越中散居村ではボタモチを「かいもち」と言ってました
相馬藩内には三分の一が越中などからの移民で構成されている
天明の飢饉のときに相馬藩に移民として入ってきた人達なのだ
するとボタモチとこの辺では言っていたが越中の移民は貝餅といいそれが地名化したのだろうか?
そこには越中などの移民が住んでいたのかともなる
餅は持ち運びやすいから貨幣の役割もしたかもしれない,交換するものとして持ち運びできるからである。
でも越中の移民が来てそこが地名化したということはほとんど聞かない
ただ言葉は入ってきた,ノバというとき裸という意味であり子供の時使っていた
だから言葉は人とともに移動するのである。
西殿をニシドンというときもその基は京都とかにありやがて九州にも伝播して関東にも伝播する,それで蘇我殿というときソガドンになったとかなる
千葉県は相馬氏の発祥の地だからその一族が西殿に住んだからニシドンという言葉も移動したとなる
原町区の地名については解説した人がまだいないみたいだ,相馬市にはいた
地名は誤解が多いかあてつけが多いから問題がある
人によっていろいろと勝手に解釈しやすいから学問になりにくいのである。
ただ地名はいつも使っているから最も親しみやすいものなのである。
だから当然興味をもっても不思議ではない
自分は全国を旅行して最初鉄道だから駅名に関心をもった
地名から歴史とか郷土史に興味をもったとなり遂に
陸奥の真野の草原(かやはら)の歌の草原(かやはら)は地名だと考察したのである。
それはずっと地名に関心があったからである。
●曲田地名
曲田とあるのは田の形が曲がっているから名付けられた,扇田とか丸田とか三角田とか細田とか田に関する地名が多いのは当然である。
まず正方形と長方形にするのが文明のはじまりである。
でも田でも正方形と長方形に作ることはできない,どうしても曲がる田になってしまう
日本には無数の田がある,その田も小さいのである。わずかの土地を開き(ヒラ)きヒラタイものにして田畑を作ってきた
それで例の家が壊された広い土地をもつ人の話を聞いたらあそこがまっすぐな道路になっているがあれはまっすぐでなかったという,まずまっすぐな道路は日本では作りにくいのだ,いろいろな障害があって作りにくいのである。
それには相当な技術が必要なのである。
だから日本では曲がった道が多いのである。
ともかく最近この辺を見ると金沢へ行く坂もソーラパネルになった,あそこも小さい田が多かったのである。
今やそうした小さい田を維持できない,するとそんな土地をもっていても役に立たない,金にならないからソーラパネルにする,他でもそういう土地が多い
荒地になっている,するとそこはソーラパネルになりやすいのである。
でもそうなると景観が壊されるのである。
家の前が田んぼだったがソーラパネルになっている所をみかける
あれは夏にるなと光りの照り返しがあり暑くなる
環境破壊でもあるのだ,でも何にもならない土地をもっていても無駄だからしかたがないとなる
田畑をやめた人がかなりいるからだ,田畑を維持すること自体後継者もいないとか原発事故前からなっていたからそうした半端な田畑はみんなやめたとなる
ただ菊畑であったところもソーラパネルになったし何かそこで月が出ていい感じだったがソーラパネルになるとそんな風流もなくなったのである。
ともかく自分は相当に地名には興味をもちつづけていた,それは旅行したときから始まっていたのである。
人間は何か興味をもつ,ただそれをもちつづけないと成果がでない
雑学でもだからそれを成果に結びつけるには日頃からずっと継続して勉強していないと成果は出ないのである。
つまり能力がない天才でなくてもそうして継続していると何かしら専門家として通るようになる
「継続は力なのである」だから雑学でも学問であり馬鹿にできない
人間は雑学すらものにしていないからだ,それは継続しないからなのだ
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