2018年06月14日

鉄道俳句(3分5分とまる駅) (鉄道は人間的なものとして愛着がある)


鉄道俳句(3分5分とまる駅)

(鉄道は人間的なものとして愛着がある)


(逢隈(おおくま)

蝉の鳴く三分とまる電車かな

(亘理駅)

亘理駅車窓に一羽秋鴎

(山下駅)

通勤の人や菖蒲の列をなし

(新地駅)

蛙鳴き5分とまりて夏の月

月照らし5分とまりて虫の声

新地駅二本の木植え冬の暮



タンポポや一挙に遠く新幹線

暑き日や鉄路はつづく旅路かな

駅の名を一つ覚えて春の雲

雪うもれ乗る人数人小国へと


鉄道の旅が長いから鉄道には思い入れがある、鉄道に勤めた人も思い入れがある
人間は何であれそこで長い間働けば勤めればそれが人生だったとなるからだ
高倉健の「鉄道員」はそういう映画だった、最後は北海道の辺鄙な駅でしんだ
そして遺体は一両の電車に乗せられて真冬の雪の北海道に消えた
そのシ−ンがまさに鉄道とともに生きた人間を表現していたのである。

鉄道でもいろいろ興味の対象がある、車両とか機械に興味を持つ人もいる、マニアックな人もいる、
でもいくら機械が発達しても便利になってもそこに人間が生きているということを見るべきである。
この世界は機械がロボットが生きる場所ではないのだ
人間が生きる場所であり人間のドラマなのである
だからかえって辺鄙な駅で一両の電車が来るような所が人間的になっていたのである。
この辺で一時原町から相馬市の区間しか電車がはしらなかった
そのとき二両の電車でありそれがが人間的になっている、人間に見えたというのも不思議だった
時雨がふったりしてもそれが人間に見えたのである
ところが四両になるとそうはなりにくかった、6両になると余計にそうなっていたのも不思議である。
それで一両の電車はまさに人間が走っているように見えたのである
とことこ走ってくる姿は人間そのものなのである

何か駅は送り迎えしたりする場であり人間的な情がしみこんだ場所なのである
それが車の道の駅とは違う、そこに出会いとか別れもあまり感じないのである。
見送りで迎えるというものではない、駅には常に人が出迎え別れる場だから人間的な情がある

駅はまた必ず10分でも待つ場所なのである。その待つことで人間的なものが生まれてくる、道の駅では待つことはないのである。
そういうふうに鉄道は120年とかそうして人間的場として機能してきたのである。
だからこそ鉄道を廃止させたくないというときただ便利でなくなったからというだけではない、そうした人間と一体化したものがなくなることが淋しいのである。

それで新地駅が津波の後に新しくなったがその前の駅の方が人間的だったとなる
仙台から帰る時必ず5分停車するのである
その5分が人間的なものにする,ホ−ムに出ると海が近く津波の前は集落があって屋根が見えた、そこでカエルの声とか虫の音とか聞いていた
月が上って照らしてもいた、要するにその5分とまることによって自然を感じていたのである

それは阿武隈川をわたる手前の駅の逢隈(おおくま)駅でも待ち合わせのために3分とまる、すると蝉の声がそこでひびくのである。
こういうことは車で経験しにくいのである。
ともかく人間はなんでも自然が反映することで情緒が生まれる
東京となると地下鉄とかなると何にも自然が反映しない、そういうのは便利でも嫌だとなる、だからもう自分は東京には行きたくないのである
人ばかりで嫌になるからだ、ただ大江戸線ではトンネルをぬけて隅田川に出て公園になっているとこすは開けた感じで良かった、隅田川のところはまだ自然がしるからだ
百羽の鴎が群れていたことでもあそこは自然がある場である

自分は鉄道には思い入れがある、だから駅でもボランティアするようになった
要するに自分は鉄道が好きなのである。鉄道というときメカだけではない、何か人間的なものが鉄道にはあるからだ、今駅に行って人と会って話したりするものそうである
そこは広場とか出会いの場でもあるのだ
高速のSAがセディティは人で賑うが何か人間的ではない,ただ人がちょっと休憩して去るだけだと感じてしまうのである。
だから高速と鉄道はかなり違ったものなのである




タグ:鉄道俳句
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