2018年06月15日

野馬追いの旗は種類が多く由来がわかりにくいのか? (スコットランドのキルトのタータンとの比較− 南朝の霊山から落ち延びた武士はわかりやすい))


野馬追いの旗は種類が多く由来がわかりにくいのか?

(スコットランドのキルトのタータンとの比較−
南朝の霊山から落ち延びた武士はわかりやすい))


●スコットランドのタータンの由来

イングランドとスコットランド間では宗教・人種的な対立があり、ハイランダーたちにとっての"キルト"とは
 強大な権力をもつ中央集権へ対する反逆精神であり "アイデンティティー" を示す大切なものだったのです。

 決して「タータン・チェック」と言ってはいけません。。タータンは布地の柄というよりも、 氏族ごとに定められた家紋に相当する模様の総称なのです。

基本的に上下左右が対象になった連続模様で、 その連続する模様のパターンを「セット(sett)」といいます。

また、家紋に相当するといっても、 ひとつの氏族にタータンはひとつだけではありません。

 ビクトリア朝時代の「タータン熱」以来、特定のクランに属し、特定のクランを示す「クランタータン」はスコットランドのクランの重要な要素となっている。タータンの着用やそのデザインならびに命名は自由だが、クランのタータンを「公式に」定める権限は族長の仕事と考えられている。リヨン卿がそのタータンをスコットランド紋章院に登録したように、実際に族長がそのクランのタータンを登録した例もあり、これはタータンが紋章に並ぶクランの権威ある意匠であることを示している。


野馬追いの旗の種類が多くなぜ由来がわかりにくいのか?スコットランドのキルト、タ−タンとにているのだがまた違っている
ただヨ−ロッパの歴史と日本の歴史はにている、封建制があり城が本当に多いのである
日本も小さな城でも多いからだ、中国とか他でも城があったとしても性格が違うがヨ−ロッパの城は日本と成り立ちがにている
ただ城壁に囲まれてそこが市民共同体ブルジュアとなったのとは違う、burgとは城のことだからである。
ヨ−ロッパでは市の紋章があり市が一つの国を形成した、そういう歴史は日本にはないのである。

野馬追いの旗の系譜をたどると相馬氏一族の旗となるがなぜ旗の種類が多いのか?
それはもともと家族の家の旗に由来している
鎌倉時代のいざ鎌倉というとき自分の家の旗印をかがげて馬で集結した
そのときの旗印が家の旗印でありそれで手柄をたてて恩賞を賜るということで旗の種類が多いとなる,相馬氏一族の旗だったら一つでもいいはずだからである

スコットランドのキルトの紋様は部族に根ざしている、その部族の根拠地になった土地がある、土地に由来している
野馬追いの旗は相馬氏一族がこの地に移り住んで支配した
もともとこの地を支配していたのではない、後から征服したのである。
その前に館と地名がある所には在地の勢力があった、それで海側には泉氏とか磯部では佐藤氏とか協力な在地の豪族が住んでいたのである
それで相馬氏の進出経路で書いたように深野には館という地名が二つありそこには入れなかった、大原に進出したのである。
大原から小池から相馬市の方に進出した、相馬市には伊達氏の支配地ともなっていた

スコットランドの部族はもともと在地の勢力でありイングランドに支配されていない
もし相馬氏のようにスコットランドに入って来たら相馬氏の一族がスコットランドの地に部族に入り込み子孫となっていたからである。
それで相馬藩は相馬氏によって支配されたのだがもともと在地の勢力ではない
だから後から在地の勢力の中に入りその一族の人たちが郷士として土着したのである。
そこで姓も受け継がれその子孫が村を作ったのである。
ただもともとそこに住んでいた人は郷士の監視下に置かれたのである。
それで野馬追いの旗はもともとの地域に由来していないからわかりにくいのである。

A村B村C村の中に相馬氏の一族の人たちがはいりこみ土着した
その時の家の旗印がもちこまれたのである。その土地に由来するものではない
ただ村に入り込み土着したとき分家するからその分家した旗印はにているのである。
でもそれはもともとの村から発したものではない、スコットランドのキルトはもともとその土地に住んでいた人たちの部族に由来しているのとは違うのである。
つまり野馬追いの旗の由来はその村とか土地にないとしたらその由来は相馬氏がもともと支配していた千葉県とかになりさらに家の旗だから鎌倉時代にさかのぼりその旗印は関西方面にも由来しているのである。いろいろな家の人が相馬氏の中に組み入れられたからで知る。そこでその由来をたどることがむずかしくなっているのである

●南北朝の争いで霊山炎上して落ち延びた一族の旗はわかりやすい
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山王神社日吉神社の由来

山王権現日吉大社は、日本全国にある日吉、日枝、山王神社の総本宮で、東本宮に大山咋命(オオヤマクイノミコト)、西本宮に大己貴神(大国主神)が祀られています。

創祀は崇神天皇7年、およそ2100年前とされる。古事記に「大山咋神、此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあり、これが東本宮の大山咋命のことですね。で、ここに記されている日枝の山(ひえのやま)というのが比叡山のことなのですが、日吉大社が、元は日枝大社といわれていたのは、ここからきていたんですね。

、“神猿(まさる)”さんという神の使いの猿がいらっしゃいます。「まさる=魔が去る=勝る」として、魔除けの象徴となっています。境内地で2匹の猿が飼育されて、可愛かったですよ〜(*^_^*)

豊臣秀吉は、幼名を「日吉丸」、あだ名が「猿」ということで、日吉大社を特別な神社としていたらしく、織田信長の比叡山の焼打ちで焼けてしまった日吉大社の復興に尽力したという話です。

日本全国に約2000社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮。
比叡山の延暦寺は16弁菊の中に輪宝。或いは寺紋として単に「山」の印。
此れは日枝山王の神が大山くひの神であるからです。


南北朝の争いで落ち延びた武士が鹿島の真野に住んだそこに日吉神社がある
菊の紋は天皇に由来している、だから菊の紋は天皇の紋でありそれを利用しているのは南朝側であり山王とか王という旗もそうである。
霊山から落ち延びるとき今の玉野村で二手に分かれたからである。
山上と卒塔婆峠を通る道に分かれて落ち延びた、卒塔婆峠を通って落ち延びた武士は鹿島の真野の中館に住んだ、そこには日吉神社がある
それから鹿島村には只野氏一族が住んだ、その只野氏の先祖だった人が同級だったのである。
鹿島には只野、但野姓が本当に多い、その由来は郡山の多田野村から来ていたのである。只野氏の旗印は杉の紋でありその旗印があるのは只野氏由来のものである。
だからこの紋はわかりやすいのである。

それから山王とある旗印もそうである、王とあるのもそうだろう
例えば菊の紋で菊池とあるとき菊池氏は九州に存在して菊池という地名もある                          
肥後菊池に土着した勢力が菊池となり全国に散らばったし陸奥には菊池姓が多い
陸奥菊池氏も肥後菊池氏と同族で、建武の新政に関った人々の中に菊池一族も名前を連ねていることから後醍醐天皇の多くの皇子に伴って全国各地に散らばったとされる。
ただ菊池姓がいても紋は違っている、菊の紋ではない、別な紋である、ただ菊の紋は天皇に由来していて南朝である

野馬追いは旗祭りだというとき旗のことがわからないとつまらないと思う
誰でもなぜあんなに旗の種類が多いのだろうと疑問に思う
しかしその由来がわからないとつまらないとなる
旗とはスコットランドでもそうだがキルトはタータンはイングランドに対抗するものとしての土地のアイディンティティとして作られていた
とするとわかりやすいが野馬追いの旗印はもともと村に土地に根ざすものではない
この地を支配した氏族でありその由来をたどるとこの土地にはないとなるからわかりにくいのである。

ただ南北朝の争いで霊山が炎上したとき落ち延びた時の武士に只野氏とか桑折氏とかの姓は明確である。その子孫がこの地に増えて只野氏の姓が多いのである。
野馬追いは戦国時代に軍事訓練として始められた
それが伊達に対抗するためそうした、それを否定する者もいるが例えば北朝鮮に対して日韓で合同で軍事訓練をするのはやはり北朝鮮が攻めてくるとしているからそうなったのである。
スコットランドでもやはりイングランドとの対立でそれに対抗するための民族衣装としてキルトのタータンが生まれたのである。
なぜなら後でイングランドに負けたときその民族衣装が禁止されたからである。
民族同士の争いだとそういうことが世界で起きている   

●北郷鹿島村の旗印   
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北郷の行列(鹿島区)

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二本の矢から三本の矢になったのか?
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鹿島街内から出陣

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鹿島の一石坂を上る(鹿島からヒバリが原に出陣


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自作の菊の紋

鹿島村で顕著なのは杉の紋の只野氏である、只野氏については前にも書いた、それから菊の紋があるとき菊池氏がいる
それから桑折氏もいる、これらの武士は南北朝の争いの時鹿島に落ち延びた、日吉神社のある中館に住んだ
ただ鹿島村るも住んだ、それが同級生の只野氏だった、おつづら馬とういう荷物を運ぶ役をお浜下りの祭りで担っている重要な一族であり只野氏一族は鹿島に多いのである。

ただまぎらわしいのは戸川とあるとき川の字をとって旗印にしている、そういう旗印もほかにある
それから星が三本の矢になっているが菊池氏の紋は二本の矢だからここから波及したのかとなる
とにかく鹿島には南北朝の争いで霊山が炎上したとき落ち延びた武士の子孫が土着したということは明確なのである。
その旗印もわかりやすいのである。   

野馬追いの旗印をなんとか分類しようとするがむずかしい、でも野馬追いの旗は勝手に作って祭りに出れないというときそれは歴史の保存の役目を担っているからである。
なぜなら勝手に旗印を作って行列に参加したら訳わからなくなるからだ、その由来も混乱してくるからだ
それはスコットランドのキルトのタータンと同じであり正式に歴史的認められないものは許可されないのと同じである。
ヨ−ロッパでは紋章がありその紋章の由来を調査する機関もある、勝手に貴族の紋章が使えないと同じである。
ともかく南朝の旗印はわかりやすいから見ておくべきである。 




 菊池氏一族とは

 南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎

  (お浜下りの祭りのおつづら馬の話ー野馬追いの旗印は杉紋)  









posted by 老鶯 at 17:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 野馬追い関係
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