2018年06月29日

相馬藩内の地名を探る (津波で原始の状態が再現されて地名を理解した)


相馬藩内の地名を探る

(津波で原始の状態が再現されて地名を理解した)

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八沢浦にこんな広い沼が生まれた
二つも三つも生まれた、それで二ツ沼という万葉集の歌があることを実感した
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荒地化して羚羊がでて猿が増えた原発避難地域 
(橲原渓谷からバラ坂、大葦、大古林道から大原へ)

田の意味に「田畑のように何かをうむ所」があり、古訓に「ところ」があるのです。                       
 黒ノ田は「黒がある所」の意になります。  
 この周辺は金銀銅鉄などの鉱産物が多い地帯ですから、
 黒はくろがねの黒で砂鉄か鉄鉱石を産出した所と推測できます。


 大畠一・大畠二(小字名) 
上坂田集落の南東側の水田の地名です。耕地面積の大きい畑の意の地名です

地名から探る郷土史と歴史のポイント

●原始の自然状態をイメージする

●地名でも新旧を探る

●渡来人の地名は古く多いから要注意

地名学となるとまず日本の自然状態、人の手のはいらない自然状態をイメージすることが不可欠である
津波で驚いたのはその原始の自然状態が再現されたことであった
八沢浦が元の入り江にもどったときほど驚いたことはない、そして塩アまで津波が来ていた
そこに古代の港とされる船着という地名がありその近くまで津波が来ていたことには驚いた、つまり太古の状態が再現されて船着という地名があり確かにここに船が来ていたことが津波によってリアルに証明されたのである。
地名はまるで化石と同じくらい古いのである。船着といってもそれは化石地名となっていた、どうしてあそこに船が来たのかということがイメージできなくなっていたからだ
でもあそこはもともと低い場所でありだから津波が奥までおしよせたのである。

このように原始からの手のはいらない自然状態から考察しないかぎり地名はわからないのである。自然状態というとき一時八沢浦とかでもほかでも大きな沼ができたことにも驚いた、日本の原始状態は湿地帯であり沼が多かった、だから海側には沼とつく地名が多いのである。沼田とか池田となるともともとそこはには沼があり埋め立てて田にしたとなる
田下駄というのがありそうした湿地帯や沼を田にするのに下駄が生まれたのである。
その後でも下駄はぬかるよに強いからである。舗装されていな道では下駄が良かったのである。

ともかく無数の地名があるとしてまず原始の自然状態をイメージすることから地名を知るそれは歴史でもそうである、原始の自然状態から地理から歴史を知ることが不可欠なのである。
例えば芦田というのも多い、そこには芦が茂っていたからその名がついた
ところがアシは悪しきとかになり縁起が悪いとして吉田にしたという
吉田でも葦が茂っていたからの意味もあるが縁起を担いで吉田としたとある
吉原とかは遊郭で有名だけどそこは葦が茂っている原野だったのである。

ともかく相馬郷土史でも地名から探る時人の手の入らない原始状態を見るべきである。
原町だと長野とか深野があり大原がある、それが原始状態としてある
原町は原っぱであり名付けられた、そこは野馬が放し飼いされた広大な牧であり今の街などなかったのである。人も住んでいない原っぱだったのである。
原町の成り立ちは今の街の周辺地域から始まった、まず館とある地名は鎌倉時代とか中世に由来するからそこを注目しておく、深野には館とつく地名が二つもあり古い、大原は相馬市が入ってきて開墾された場所であり新しいのである。
この地名の新旧も大事なのだ、そもそも歴史でも郷土史でも村の新旧でも何か古いのか新しいのかを知ることが基本的にある、これを間違うと歴史を誤解する

新旧というとき朝鮮半島からなどの渡来人がきて地名化したことは要注意である。
例えば末続(すえづく)などは須恵器を作る渡来人の技術集団がきてなづけたし津宮(つのみや)とかあるのもそうだった,ツノとはツノガノアラシトのことだからである。
これは製鉄の技術をもっていた技術集団でありそれが最初に地名化したのである。
朝鮮半島には伽耶とかが百済とか新羅の前にあり日本の天皇が伽耶に由来しているとかの説もある、つまり伽耶(かや)という地名は萱(かや)と混同しやすいが伽耶の国の人たちが移住してきてついた地名がある
そしてこの人たち日本の大和王権成立前から来ていた
それで蝦夷とはこの伽耶族とかが入ってきて大和王権に対抗した人たちなのである。
それだけ日本に来たことが古いのである。

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原始の状態を見るとき地名が解明されることがある、大原から八木沢峠に行く道の薔薇(バラ)坂がある、ここになぜ薔薇なのか?それがわからなっかた、薔薇というとき薔薇の花をイメージするが茨のことであり荊とか棘とかなる,刺(とげ)がある茨(いばら)の原だったのである。
それを実感したのは薔薇坂でそこの家が放射能汚染で避難区域になった
その時そこに入ったら茨があり難儀した、そしてそこにカモシカが出てきたことにも驚いた、茨は茨木になった由来は知られている
なぜここが薔薇坂なのか?薔薇という字ではなく茨にしていればイメージするものが違っていたとなる
これでもわかるように地名は常にその土地の原始状態を人の手のはいらない状態をイメージすることが不可欠なのである。
そして地名でも常に新旧を知ることである。
深野にあった豪倉という地名は昭和十年とかに建てられた新しいものだった、だからそれほど価値ないと見た、歴史では常に古いものが価値があり古いものから歴史を探る

だから相馬市はもともと中村があり城が作られた側まで中村だった、その後に田町とか大町とか町(街)になった、ただ曲田となるともともと田があったとなる
順序的には田町は新しいとなる、城がてきてその後に地名化したとなる
それは中村という大きな村がありその中に後から町(街)ができたからである。
もともと田があったから田町となった

基本的に日本では田と畑の地名が多い,でも田より畑の地名が古い、畠とあり畑とあると火があるから焼き畑地名である。田が作られる前は焼き畑がった
だからこそ焼き畑地名は多いし古いとなる、飯館村の佐須とか比曽とかも焼き畑地名である。山林地帯であり森を焼いて畑にした場所であり狼が祭られていた山津見神社は
焼き畑とか関係し神社なのである。なぜなら狼は作物を荒らすイノシシやサルやシカを食べるからである、狼はだから大神になっていたのである。
焼き畑地名は田のつく地名より古いのである。

ただ黒田が黒の田というときそこに鉱物資源がとれたというのはわかりにくい、鉄生産の地名も多い、そしてその鉄生産に渡来人がかかわっていた
海側だと砂鉄がとれるしそのために海側を伝って移動してきたとなる
ツノガノアラシトの角(つの)とつく地名が小高にある角部(つのべ)なのである。
津軽(つがる)もツノガノアラシトがなまったものでありなぜ棚倉で大和王権軍と戦ったことが伝説化している津軽(ツガル)族がここで一緒に戦っていたのか?
ツノガノアラシト系が東北で離れていても連携していたともなるのである。
ただ渡来人系の地名とか足跡は大和王権になり隠されたことは確かである。
それで不明になったのが多いのである。

ともかく地名の起こりは日本の原始の状態がはじまっている、だから日本の純自然状態を知らないと地名もわからないのである。そこが吉原だったち遊郭とかなればイメージできなくる、都会のビルが林立すればイメージできなくなる
でも津波で原始の状態が再現されたときリアルにイメージできたのである。

南相馬市の大原から八木沢峠へ (バラ坂の地名由来の考察)

荒地化して羚羊がでて猿が増えた原発避難地域

(橲原渓谷からバラ坂、大葦、大古林道から大原へー春の短歌)


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