日本語と英語の相違の背景を見る
(狩猟牧畜民とアジア的農耕民の相違がある)
言葉の背景にはまず人間の生活があり生まれる、はじめに言葉ありきではない、はじめに生活ありきで人間は始まっている
その生活の相違が文明と文化の大きな相違を産む、それがどうししても相いれないものとなり対立する、それを象徴していたのが遊牧民のモンゴルと農耕民の中国だった
それで万里長城が作られたのである
農耕民からすると狩猟とか牧畜民族は遊牧民はそもそも定住しないで羊を追って生活しているから理解しにくい,ただ日本人でも縄文人とかは狩猟民族だったのである
それでアイヌ語にhaveと同じような使い方があるというのも不思議なのである。
そこに狩猟民として印欧語との共通性があるとなるがこれは簡単には解明できない
アイヌ語はあまりにも未熟な言葉だからである、極端に語彙が少ないからだ
ただ縄文人が狩猟民であるとしたらかえって印欧語族の人たちと生活形態が同じだから通じ合うともなる、それは言葉の前に同じような生活をしていたからそうなる
言葉にもいろいろあるが例えばstraightという言葉は日本語にはない
それは砂漠とか平原とかに合う言葉でありそういう風土から生まれたものである
どこまでも平坦な土地にstraightに道が伸びているとかなる
straightに天に達するとかなる、日本は常に山であり山で遮られるからそういう感覚がない
それを訳すとなおる、直るという言葉である、直るとは修復するとか曲がったものが直るという意味になる、これはストレートとは違った意味である
直るとは立つではなく座る意味だからである。
万葉集にもある「真直なる」まなおなるとは日本人の自然と融合した文化から生まれた
それはストレートとは違ったものである、だから訳しにくいのは世界観が違うから訳せないとなるのだ
語順もまたその国の自然観とか文化とか関係して生まれている、ともかく英語などの印欧語は平原とか砂漠とかで暮らしている人から生まれたのである。
そこで狩猟するとか遊牧するとかしていてその言葉が生まれた
だからイメージできるのは平坦な土地に動くもの、動物が現れるとするとまずその動くものに注目する、そして動くものを捕らえたり追ったりするのだから主語の次に動詞がくる動詞が主語の次に来るのはそれは動くものに即座に反応するためである
もし豹でも迫って来たら即座に行動しないと殺されてしまうからである
素早い反応するということは動詞になるのである
アジアは植物的世界観の上に言葉も成り立っている、そこで最初に見えるのは森とか山であり動物がいたとしても森とか山が迫るからその後に動くものを見る
そして主語が日本語で省かれるのは主語が日本では山とか森になるからである
自然が主体であり自然に主語なる人間は消える、溶け込むからそうなる
だから語順はそうした生活から生み出されたのである
誰かが勝手に作り出したものではないのである。
つまり狩猟や遊牧民の人たちはそういう言葉を使っている必要があったからそうなったのである
言葉にもいろいろあるが日本語と同じような語順をとるのが40パ―セントくらいあるとき半々になる、それは東西の自然と文化の相違からそうなった
東西の文明文化の相違は言葉となれば印欧語族とアジア系統の言葉である
それは自然の相違でそうなったのである。仏教でも草木も成仏するとの思想もアジアの思想なのである、印欧語族だとヨ−ロッパとかになるとそうはならないからだ
文明とか文化をみるとき平原とか砂漠は幾何学的発想が生まれる、なぜならストレ―トがまっすくだというときそれは幾何学的てもの図形的思想が生まれやすい
だから砂漠の平坦な土地のエジプトにピラミッドが生まれともなる
日本のようなアジアで熱帯のような鬱蒼とした森からはそうした図形的立体的幾何学的感覚になりにくいのである。
つまり森とか山にさえぎられてそうした思考が起こりにくいのである
ただなぜ中国は主語の後に動詞が来るのか?中国は最初の始皇帝の国家が西から来た遊牧民によって騎馬民族によって作られたことでわかるように平原地帯の人々が入ってきて作られた国家という側面があった、ただそれが主語の後に動詞が来るのかという説明があたっているかどうかはわからない、でも語順が大事だというとき中国はアジアとは異質だともなる、中国は農耕民であったが遊牧民と商業民族の血が濃くまじっているのである
方向を示す北斗七星や北極星信仰があるのもそうである、それは遊牧民から伝わったのもである
それで野馬追い知られる相馬氏の信仰が妙見信仰になっている、それは北斗七星と北極星の信仰なのである。それは中国から入り韓国経由で伝えられたのである。
haveというときなぜこれほどの多様な意味があるのか?
haveには羊を持つとあれば羊を育て養うという意味がある
それは遊牧民の生活から生まれたのである。
日本語だったらそういうことがありえないからである。
このhaveはとても言語学では理解できない、その生活形態を知る時理解できるものだからである、つまり言葉だけでは異なった文明文化を理解できないのである
haveには日本語にすれば養う、培う、育てる、・・・とかの意味があり日本ではそれは米とか野菜をとかを育てるとか培うとなるが英語では羊を養う、育てる、飼うとなるのである。培う(つちかう)は土が関係しているが英語では羊を育てるとなる
羊文化、牧畜文化がヨ−ロッパ全体にも広がっている、羊はヨ−ロッパのどこでも飼われている
それはやはり平坦な地が多いとかなり地理的特性が平原地帯とにているからである。
日本だと山ばかりだから平坦な地が少ないから牧畜に向いていなかったのである。
日本は海に囲まれているから海の幸にめぐまれて生活したとなるからだ
生活形態や地理が異文化交流の障壁となる
(蝦夷は狩猟民族だったから対立した)