田舎から考えるグローバル経済
(一本一万円のキュウリの味)
キュウリをもらったけどそさが太い、こんなにキュウリが太いのかと驚いた
売っているものは細いからである、味も違う、うまいものだった
硬くなく柔らかいキュウリなのである
今はハウス栽培のを買って食べている、だから天然の露地ものの野菜を知らない場合がある、近くで市が開かれるがそこのトマトは露地ものでありうまいものだった
でも後で一個500円にもなって買わなくなった
近くの市場では何でも高くなる、だからスーパーで買った方が安いのである
それもグロ−バル経済広域経済のためなのである
なぜこの太いキュウリが一万円だとしたのか?
それは実際はもっと高くついている
肥料代と種代と農薬代とが自分が払ったからである
そこでもらったのはこのキュウリだけである
だからもっと高くついているのだ
でもそれが高かったのかというとそうでもない
農業についてじかに知ることができたからである
そういう勉強代に払ったとなる
農業する畑をもつことの意味がどういうものかわかったということがある
自分はちょっと草取りなどしても何もしない
でもその土地でとれるものを食べることその味は格別なものがあると思った
そう思うようになったのはこれまでも書いてきたが畑が例え趣味でしてもどれだけ大変なものか肌で知った
毎日草取りだしキジの被害は大きい、他にもモグラだとかネズミだとか虫に食われるとかの被害も常にある、それから必ず盗まれるのも困る
そういうことを毎日聞かされたから農業がいかに大変なものを肌で知ったからである。
だからこそもらったキュウリは格別なものとなったのである。
スーパーで売っているものはどこでとれたのか?どうしてとれたのか?
そうしたことは一切わからない、ただ金を払えば買える
だから金の方が貴重だとなる、食料がとれる過程が全くわからないからである
苦労なども全くわからない、ただ気にしているのは値段だけだとなるからだ
もらったキュウリはこの土地でとれたものであるということも価値があることだった
この住んでいる場所でこういうものがとれるんだということを実感する
すると買うより豊かな気持ちになる、その富はこの土地から生み出されたからである
戦前とかその後で自給自足的な生活は戦後十年くらいまではつづいていた
何故ならエネルギー炭だったから炭は近くの山の木材だったからである
たいだい周りにあるもの地元にあるもので生活していた
家を建てるにしても地元の木材をとり建てる人も地元の人だった
今は家は外材であり建てる人も外部の人であり地元の人も材料も関係ないのである。
そういうときそこが故郷なのか?
故郷とは何かというときこれもなかなかわからないものだった
故郷とは与えられたものではない、ただあったものではない、それは先祖が田畑でも切り開き作りだしたものである、家があるとしてもそれは先祖が作り残したものだとなっていた、戦後開墾に入った場所が全国で多い、この辺でも浪江の津島辺りでも開墾に入り切り開いた、それで結束が強いというのもわかる
そこは放射能被害で住めなくなった、放射線量が特に高い場所だったのである
そういうふうにして苦労して開墾して住んだ人たちはそこが第二の故郷になる
それはただ与えられたものではない、苦労して切り開いたからこそ故郷なのである
故郷とはただ与えられるだけでは故郷にならないともなる
故郷はそうして作り上げられるものがあって故郷となるのかもしれない
俺たちはここを苦労して切り開き田畑にして住めるようにしたとかなる
それは北海道を開墾して住んだ人たちもそうである
逆にこんなことを自分が言うがそこで働く人はそうはならない
いくら農業しても金にならないとして農業したくないというのが現実だった
それはあまりに過酷だったからそうなった
農業だけはやるな親に殴られたという人は原発で働き工事現場で働いたのである
そこは金になるからである、とても農業だけで生活できない、そして時代が変わったからである
その畑で野菜を作る人にしても実は貧乏であり誰かが援助しなければ畑もできない
畑で野菜を作っても金にはならない、実際は十倍もの金がかかるのである
いくらこの土地でとれたものだから価値がありうまいと言ってももし農業して生活することはできない、,小遣いにもならない、赤字なのである
でも何かその土地でとれるものを食べることは買うのとは違った充実感がある
充足感がある、それがやはり自然だからだろう
みんな普通はその土地の恵みがあり生きていたからである
地球の裏側か食料が入ってくることは異常なことである
グロ−バル経済は何か異常なのことなのだが慣れれば普通になってしまう
飯館村でも山菜を山でとって暮らすのが普通でありただ買うだけの生活になったとき不安になったとかなるのもわかる
飯館村が貧乏でもそこに暮らすもののメリットはあった
それはどこでも何かしらその土地に恵みがあり生きるメリットがあるのだ
だからこそ地球は多様な恵みがあり多様な文化が生まれたのである
畑にはカンナが明るく咲いている、そして実りがあった
その時買うだけの生活ではない、充足感を感じた
それが故郷となるのかもしれない、今のように買ってばかり生活していたら金が一番大事になり別に金さえあればどこにでも住んでいいという感覚になる
だからこそ今は金で買う生活だから一億円もらったらみんな故郷を捨てて簡単に流出したともなる
前から一億円もらったら故郷を出るのだがという若者も多かったからである。
自分でもそうだが金だけにたより金で買うことばかりの生活だそうなってしまう
そこが故郷となるのか?ならないからみんな流出したともなる
ただ正直人間は矛盾した存在である。いくらそうはいってもやはり金がないなら趣味の畑でも故郷の土地からでも実りはないとなる
でも実感として一万したとしてもそのキュウリにはそれだけの価値があったなと思った
それはそれだけその畑と自分もかかわったからだともなる
何か矛盾しているのだけどもその価値を認識した、それは理屈ではない実感である
畑にそカンナの咲きて夏の雲湧きあがかなここに生きなむ
カンナが畑に明るく咲いていた、そして夏の白い雲が湧きあがる、その時この土地に生きることを実感した、農業している人は自然と一体化するからそれを実感するのである
自分の場合はただ花を見ていただけである
だか今回畑で野菜を作る人とかかわりこの土地との一体感を感じたのである
ただ矛盾しているここに生きるとしてもその人自体も金がなくては生きられないのである医者通いもしているし年金ではたりないとか生活できない
それでも畑がもっている意味とか故郷とかその土地の意味とかが何かをじかに知ったということはあった、田舎だと本当は農業を知らないとわからない
ただ今は田舎でも農業を知らない、農家に嫁いだ人は何も知らない、土さえ触ったことはない、夫は会社員だし妻もそうである
田んぼは委託しているし花さえ作っていないからだ
その女性は古い農家に嫁いでも農業のことは何も知らないのである
今はみんな会社員だとすると田舎でも農業のことを知らないのである
一応田畑があるから見ているけど農業を知らないのである。
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