2018年08月30日

なぜ原発事故の補償金でもめたのか? (金のみがすべてとなって共同体がは回りが無視されたため)


なぜ原発事故の補償金でもめたのか?

(金のみがすべてとなって共同体がは回りが無視されたため)

この辺でなぜ補償金でもめたのか、それは共同体というのが眼中にない、ただ多くの金を得ればいい、周りのことは関係ないとしてより多くの補償金をもらうことだけが関心となり市町村でもそこに住む人たちは争うようになりいがみあうようになり分断されたのである。
なぜそうなったのかというと現代社会の反映があった、村とかでももしそこが昔のような村だったら家族のように考える、村を守り維持するたの金として補償金を考える
でも補償金は個々人の家族に与えられたのである
すると個々人のことしか考えない、そこにはもう村という共同体もなくなっていたのである。だからできるかぎり補償金を多くもらうことしか関心がなくなった

飯館村でも小さい村だからまでいな村として共同体のつながりがあると思っていたがなかった、ある人は噂にしろ酪農していて9億円補償金をもらったとかなればどうなるのか?もう村のことなどどうでもよくなる、そういう人は村を捨て他に移り暮らすとなったのである。もう村という共同体のことなど考えなくなる
補償金は他でも共同体に村や町や市に与えられたのではない、個々人に与えられたからそうなった
あくまでもその金は共同体のものであったが個々人に与えられたことによって共同体が崩壊したのである。もともとそうした市場経済に生活していたのだからそうなったともなる
漁業をしている人たちは原発事故前も漁業権を東電に売って補償金をもらい原発御殿を建てていたとかわかった、それを周りの人はみんなもらっているわけではないから羨ましがっていたのである
共同体というとむずかしいけど要するに回りのこと隣近所のことでもあったのだ
「なんであそこではあんなに金がもらえるのだ」と回りで思う
それは同じ地域に住んでいるからそう思うのが当然なのである

昔の江戸時代の村だったらそんな金が入って贅沢することは許されないからである。
みんなで分けるべきだとなるからである
つまりそこで共同体というものが喪失した結果としてそうなっていたのである
ただ金だけをもらえばいい、周りは関係ないとなっていた
漁業権はもともと俺たちの権利であり周りの物には権利がないとしていたのである
でも海は誰のものかとなれば今になれば自治体のものだったということがある
そして漁業権を与えられていたのは海の資源の保護であり東電に漁業権を売るためのものではなかったからである。

共同体とはこうして考えると回りのことであり隣近所のことでもあったとなる
なぜ漁業者だけが船主だけがそんな補償金がもらえるのか?
それが回りの人に容認されていなかったのである。その回りの人たちは共同体のことである、共同体が容認していないのに金をもらっていたから不満だったのである。
そういうことは他にもある、なんであの人は金をもっているのだとなるときそれが回りの人が認めればいい、あの人は金をもっているけど市町村でも貢献した人だとか地域のために尽くした人だとかなっていれば文句は言わないのである。
それは国単位でもそうである、ビルゲイツとかジョブスとかコンピュターを発明した人が巨額の財産を得ても回りから容認されているから文句は言われないのである。

要するに金でもそれが回りから共同体から容認されればその金についてととやかく言われないのである。
でも共同体というのを無視して隣近所を無視して金を得るとなると不満になる
だから金というのはそうして共同体があって流通されるものである。
共同体の方が先にあってその後に金がついてくればいいのだが現代は先に金があって共同体があるとなる、その共同体も金によって分断され破壊される
なぜなら共同体自体がなくなっているからである、グロ−バル経済でもそうである
そこに世界共同体などありえないからである。そこで巨額の金が誰かわからないものに回ってゆく、数パーセントの人たちに金が入って世界を支配するとまでなる
そもそも世界共同体などはない、共同体となるとそんな大きな規模でそもそも作れないからである。
ただローマ帝国でもモンゴル帝国でも貨幣が流通するときそれなりに共同体が形成されたから貨幣がその範囲内で流通したのである。
もし共同体がなければ金は流通しないからである

この辺で起きたことは仮設には毎日のように外部からボランティアの応援が来ていた
でも地元の人は応援しなかった、それで小高の人などは鹿島の人は補償金について文句ばかりいう、一体なんなのだ、俺たちが苦しんでいるのに何なのだ、マスコミでも外部の人でもかわいそうだと思って援助しているのに何なのだと不満だったのである
でも実際は仮設は楽しい面もあった、長屋のようになり女の人たちはいつでも会えるから楽しいと言っていたし補償金ももらえたからいいと言う人もいたのである
そして知っている人は「私たちは鹿島で金を使って助けているんだよ」と言っていた
まさに消費者は金あるものは王様だとなっていたのである。
別に助けてもらうとかなんにもなかったからである
でも福祉でも介護でも優先的になりそれで迷惑になった人たちがいたのである

これが極端化したのがいわき市に避難した人たちだった、二万人も避難して次々に補償金で家を建てたから地元の人は金がないので建てられない人も多かった
それが次々に家を建てる、ベンツには乗るとかなり病院では優先的になるとか地元の人が迷惑になったから事件も起きたのである。
金があればなんでもできるという社会になったときそうなったのである
なぜまたそうなるかというと二万人の人が移住して家を建てる時、とても地元の大工でも建築関係でも間に合わない、ところが今家を建てるのは大手の建売住宅会社でありその人たちが一週間くらいで組み立てて建てる、地元の大工はかかわらないのである
するとどうなるのか?もし地元の大工だったらいくら金でやれといってもやれない
いわき市の人が優先になるとかなっていた、それが広域社会だとなくなる

広域社会とかグロ−バル社会になるとそれだけ金の力がまた大きくなっている
別に金があればどこに住んでもいいし金がある人が優先される社会なのである。
つまり金ですべてが計られる社会である
江戸時代は身分とか別な要素で人間を計っていたが今は金だけですべてが計られる
ホテルでも旅館でも金で部屋は決められる、金が高ければ最高のいい部屋があてがわれるもてなしされるのである。病院でも金があれば特等室に入れる
それで浪江の請戸の人は相馬市の病院で特等室に入り家を建てると豪語していたのであるでも周りの人がどうみるかとなると良くは見ていないということを考慮しないのである

いづれにしろ現代の広域グローバル経済は共同体なき経済でありそこには冷酷な市場の原理しかない、それはこの辺の補償金でも自治体が分断して破壊されたようになる
まず共同体があって経済があるべきなのである。そうしないと家族が共同体の核としてあり延長としての共同体も分断して破壊される、もう分断して破壊されているのである。
だから本当に金というものが何なのか?それをどうするのかは現代の深刻な問題なのである。金だけを求めてゆくと共同体は分断して破壊されてもともこうもなくなる
社会は荒廃してしまう、現実に荒廃している、みんな共同体より金さえあればいいんだとなっているからである。
回りの人でも国レベルでも福島の原発事故の補償金については容認していない
あいつらどこまでも補償金としてねだる、原発乞食だというとき国民も容認していないのである
だからそんな多額の補償金を権利があるとしても払うこと自体何なのだろうとなる
それがみんないい方向に向かうならいいが自治体は分断されていがみあうにようなったからである。
復興につなかっていないからである、水俣病のときも補償金で駄目になったというのと同じだったのである。

いづれにしろ原発事故で起きた問題は現代の社会の歪(ひずみ)が現れたものでもあった金だけが突出して共同体を越えて力をもつ、するとどうなるのか?
共同体は破壊されるのである。現実に補償金で自治体も分断された
飯館村でも9億円を牛を飼っている人がもらったとかそれが噂でも億の金をもらった人たちが普通にいるのは確かなのである。
そうなるとどうなるのか?かえって飯館村という自治体は共同体は分断されて崩壊する
当然補償金をもらってもう飯館村を出るという人たちが増える
極端にしろ9億円もらって外で贅沢した方がいいとなるのが人間だからである。
もう飯館村にはめんどうだからかかわりたくないとなってしまったのである
ただそういうことが共同体で容認されるのか?
そんな金をもらった人を周りの人は容認するのか?
いくらそういう権利があってもしない、すると外部の冷たい目にさらされることになる
それは回りの人たち、共同体では容認していないからである
金というのが突出して力をもつとき共同体を破壊させることを示したのがこの辺だったのである。

posted by 天華 at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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