AI化時代に対応しないと遅れをとる
(情報の集積化で答えを出す)
AIとは何か?それはインタ−ネットしてみていればわかる、膨大な情報がある
それを検索して結びつける、人間の知能は今までなぜ限られていたのか?
それは情報の量だったのである、情報が限られていれば学術論文などを書くにしても
いくら知能が高くても独創性があっても無理なのである。
情報量が多ければそれだけですでに有利な立場にたてるのである
それはあらゆる分野で言えるのである、理系、文系を問わず情報量によって優劣が決まる例えば学者がいたとすると欧米の学者の知識を本を紹介する、翻訳するだけで学者になれたということがある
明治以降はヨ−ロッパの文明を取り入れるためにそうなっていたのである
そこに学者の独創性はそれほどなくても良かったとなる
インタ−ネット時代になると直接外国の知識にふれることができるからそれがなくてもできるとなればただ紹介するだけでは認められなくなる
情報量が勝負だというとき最近をそれを実感したのはこんなに本があるのかという驚きである、その本の読み方が変わった
インタ−ネットの検索のようにして本を探す、すると探しているものに合った本があるという不思議である、まず本の数は本当はインタ−ネットの出る前から膨大なものだった
ただ本があることを知らなかった
それは出版されていたのだがその本のあることを知らなかった
だから私は一週間に一回ほど仙台に行っていたのは本を買うためだったのである
でもその仙台の大きな本屋でも本は限られていたのである。
それで知的探求には地方では相当なハンディキャップがあったなとふりかえる
学問とは確かに自分で思考することだが知識は情報量で優劣が決まる
いくら独創性があっても情報量がたりないと足りないものが生じる
それはなぜなのか?
今回本を買ったがこんな本があること自体不思議だった
それは自分が今まで追求してきたことをよりわかりやすく書いてあったのだ
他にも自分が探求してきたことを書いてある本があった
それはその本の一部なのだがそうだった
今回の全体的に自分が探求したことを書いてあったので驚いたのである。
本は前は高かった、古本が極めて少ないし買えなかった
今はアマゾンで古本を探すと安いのでいくらでもある
それで千円以下だとまるで蒐集するように買っている、それはインタ−ネットで検索するのとにている
ではなぜそういうことが起きるのか?
それは人間でも知識でも世界的になると広い
すると同じようなことを追求して考えている人がいる、それはインタ−ネットでもそうである、同じようなことを追求して書いている人がいるからだ
するとそこでそうした知識を結びつけるとそれだけ物事を深化して見れるのである
だから人間がインタ−ネットとかでAI化しているのである
AIの強みは膨大な情報量を処理できることなのである。
それは桁違いの情報なのである。人間はもうそうした膨大な情報を処理できない
それで株式情報でも膨大だからとても人間では予測できない
AIの方がずっと有利になるのである。
AI化というとき人間が何もすることがなくなるのではなく人間自体がAI化してくる
インタ−ネットの情報検索であれ本であらゆる本がボタン一つで買える
ただ学術書となると高くなる、でももし大学に授業料を払うより文系ならそうして本を買った方がいいとなる、情報量で優位にたてるからである
私のインタ−ネットの写真とか絵を利用した抽象画創作も全く絵の才能がないのにできた理由は膨大な写真でも絵でも抽象画でもインタ−ネット上にあったからそれをソフトで操作しただけなのである
ただ最近その操作に疲れたので休んでいるともなる、それは全く化学実験と同じだったのである。
現代は勉強するには知識を探求するには向いている
それはもうインタ−ネットできればどこでも可能である
最近はスマホでもアクセスしているからパソコンがなくても知識は吸収できるしパソコンがあれば全国にも世界にも発信できる
だから情報分野ではインタ−ネットをしないことはもう相当なハンディキャップを負うことになる、時代に乗り遅れてしまう
図書館不要論がでるというときその場所まで行きそこでまた本を探して読むというのが手間なのである、それで私は介護になってからでも終わってからでも家事に時間をとられるから行っていないのである
その場所まで知識を得るために行かねばならないこということはそれだけ時間の無駄なのである
だから当然本屋は消滅してゆく,図書館も不要論がでてくる
それは知識を探求する人はインタ−ネットしている人はわかる
AIはむずかしいにしてもある程度理解できる
医療分野でも膨大な情報量を処理することなのである
膨大なレントゲン写真から癌を見つけ出すとかその情報量によって効果を発しているのである
まず古本だけでも膨大であり安いから買える、今回買った二冊の本は自分が追求していることを語っていたということで驚いた
つまり人間は一人で考えることには限界がある、一人の知識には限界がある
それだけ知識の分野は広いからそうなっていたのである。
場所の現象学(没場所性を越えて)−エドソール・ルレフ
この本は私が自分の住んでいる場所からあらゆることを発想してアイディンティティを作ってきたようにそのことを明快に書いていたから驚いた
つまりまさにぴったりの本だったのである
ここでは住んでいる場所がいかに大事かそこをベースにして人間が形成されることをわかりやすく書いてある
現代はの場所が没場所化している、そこに人間存在そのものが希薄して意味なきものとしている、マスコミでもそれは没場所性の報道なのである
私がプログで地域の報道でもするとき没場所性にはならない、土着的な報道となっているのである、こういうことは今まではできなかった
メデアをもたないからできなかったのである。
大衆的アイディンティティはそれは集団や個人の経験から発展したというよりも世論を誘導する者によって与えられ、できあいのアイディンティティを人々に与え商業広告を代表とするマスメデアを通じて広められる
それは感情移入的内側性の余地を全く残さず場所との一体化の基礎を破壊することによって実存的内側性をむしばむ
大衆的アイディンティティが象徴や深い意味に基づかず気まぐれで寄せ集め的に生み出されたまことしやかで作為的なステレオタイプに基づくものだからである
マスメデアはその受け手が直接に経験できない場所に偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとする
Massedia tries to build up a fake world of a false place in a place the recipient can not directly experience
報道とは何かというときそこも土着性が必要だったのである。
その住んでいる場所から物事をみる、でもマスメデアになると全国的とか福島県でも広いから没場所性になる、そこに何が真実なのかも事実なのもかすら明確なものとならないし何か意味づけることもできない、ただニュースとして一過性に流れて消えてゆくだけだとなるのである、場所には永続性があるから場所をもたないものはただ一過性になってしまうのである
また直接的な経験ではないからフェクニュースになりやすい、世界的ニュースになるともう完全な没場所性になるからフェクニュースでも真実になる、その場所のことを理解することは不可能だからである
何か起きるというとき take place であり場所と関係していたからである。
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