2018年09月06日

人間の道の回復(詩) (現代文明批判)


人間の道の回復(詩)

(現代文明批判)

道の辺に芙蓉の咲きぬ
ゆったりと大らかに咲きぬ
その道は田んぼの中を
農家につづく
農家の庭は広い
あなたはその道を歩くがよい
今はここに車が通っていない
昔のようにその道を歩くがいい
歩けばその家までは遠い
その道を歩いてやっとつく
そして人は近くでも
道で結ばれていたことをしる
車の通過するだけの道ではない
人と人を結ぶ道なるを知る
芙蓉がゆったりと咲いている
時間と空間をその道を通じて
人は体得する
人は道を記憶して
道も人を記憶している
その時その場所は切り離せない
永続する場所となる

この詩をイメージしたのは小高に行ったときだった、そこはまだ人が住んでいるのが少ない、だから車も通るのが少ない、田んぼはないが草ぼうぼうである
すると芙蓉が咲いている、するとそこは江戸時代にもどったような気分になった
これも変なのだけど街中でも不思議だった
江戸時代に戻りたい知りたいなら車がないと江戸時代になるのだ
感覚的にそうなる、江戸時代に戻れないのだが車がないと空間も時間も違って見えるのだだからどうして時間感覚が空間感覚が作られるのかというとそれは環境が影響していたのである、現代では明治から機関車が走りやがて電車となり特急となり新幹線となる

それからモータリゼーションの時代になる
車時代になると何か常に車が猛スピードで走りぬけてゆくから時間が早く過ぎる感覚になる、そしてキレル感覚になるのだ
道にしても歩いてい行けばそこは人間に空間を体に刻むとか記憶するとかなるが車で突っ走る時体にも脳にも記憶されないのである
つまり空間を体験するというか記憶することができないのである。
だから現代の旅は浅薄なものになりあとでふりかえると記憶するものがなくなるのである
現代の人間は没場所性の中で生きている、都会を歩いていてもそこに何か記憶しない
記憶に残るのがどういう場所なのか?
例えば原町に行く道は自分にとっては日々の生活道路である
そこに一本の松がある、それは変わらずある、そこに秋になり蝉の声がひびく

一本の松の変わらず秋の蝉

そんな句ができる、その松はここに変わらずあったからである
ただそれも回りは相当に変化した、新しい家が建ったりソーラーパネルになり変わった
労務者の仮設も建っていた、この辺はそうして自然すら変わった
右田の松原は永続的な自然だと思っていたが津波で根こそぎ消失したのには驚いた
だから本当に変わる、無常をこの辺では経験したのである。
変わらないものかあるというとき安心するとなったのである

道も人を記憶している
その時その場所は切り離せない

記憶するというとき場所が記憶するのである、場所がないと記憶されないのである
都会では没場所性だから記憶されない、なんか茫漠たる雑然性の中に人工空間のなかに人は埋没して群衆として記憶からも消えてゆく
群衆とか大衆という概念は明治以降生まれたものである
江戸時代には群衆でも大衆でも存在しない、民衆というのはまた違ったものである
大衆化が現代の特徴だというとき大衆はマスコミなどによって新たに作り出されたものである、大衆というとき何百万とかが単位になる
テレビではその何百万を対象として放送する、番組編成する
テレビによってマスメデアによって作り出されたのが大衆だともなる
テレビがなければ大衆はまた存在しないからである。

NHKの大河ドラマでもそうである、NHKがかって歴史像をドラマで作る
そこで歴史の歪曲が起きる、でも見る人が多いからそれで歴史が誤認されるのである
つまり歴史番組でも何の番組でも多様な作り方があるからだ
報道でもそうである、今ではインタ−ネットで自由に報道番組も作れる
すると多様な見方が生まれる、これまではテレビを通じてマスコミが大衆を導く
テレビが判断したものを大衆が受け入れるようになっていたのである。
その中でもNHKが一番影響力が大きいからNHKが言っているかじゃないかということで大衆の権威となっていたのである
それに反逆する者が今度はyoutubeで放送するようになった
それで相対化される、今ではマスコミのマスメデアの報道が絶対化されていたのである

汽車が通るようになり電車でもそして車時代になってもそういう機械は道具はまた人間性を奪うものとして働く、つまりそういう機械によって空間でも時間でも切り取られという感覚になる、電車でも歩く時代からすると空間をきりとることである
歩く経験とは相当に違うのである、車でもそうである、車は空間を切り裂くように走るからである、そこでの空間の体験は記憶に残らないのである。
また空間の体験は電車でも車でもあまりにも早く距離を短縮することは距離感覚がなくなる、すると空間の体験も浅薄になり記憶されないものとなる
だから現代は便利な機械によって人間的な深い体験ができないということにもなる
だから旅でもその場所の体験ができない、ただ空間をきりとり一過性に過ぎてゆくだけだとなる 

だから短い距離でも歩いた方が空間を体験して記憶に残るとなる
何か今や歩くことが新鮮な体験であり人間発見であり自然発見にも通じているのである
それだけ人間の原体験となる歩くことすらしなくなったからだとなる
自分も歩く旅はしていない、自転車の旅が主だからである
ただ自転車で名古屋から伊勢から奈良に行き飛鳥に行ったとき伊勢と奈良が空間的に通じたという感覚になった、それは相当な距離だったが自転車で行った結果結びついたという感覚になった、これは電車で行ったらそうはならないのである

昔の道は一つの場所であり、他の場所をつなぐ一片の土地だった

昔の道は基本的に場所の延長だから、それはその道を通るすべての場所の性質を拾い集めて道そのものや終着地の地理だけではなく道の傍らの地理にも結びついている
現代の道は乗り物の延長でありそれは場所を結びつけることをしない
周囲の景観とも結びつかない

現代の道はどこからでも始まるけどどこへもつながらない・・・
(場所の現象学)

現代の道はただ物資の輸送の距離の短縮なのである
だから高速道路とかなるとただ車が流れ作業のように流れてゆくだけで景観とは切り離されるのである。一種の長いベルトコンベアーなのである
その場所の風景と切り離されてただ距離を縮めるものとしてある
それは物資を車で運ぶベルトコンベアーなのである
それはやがて自動運転で現実に本当に人が乗らない車が物資でも運ぶベルトコンベアーになる、それは近い将来にそうなる
ただそこでは物資を運ぶのであり人間的体験は省かれるのである

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