2018年09月11日

人間は自由である、でも行為には必ず責任が課せられる (責任から逃れられない、カルマから逃れられない)


人間は自由である、でも行為には必ず責任が課せられる

(責任から逃れられない、カルマから逃れられない)

人間以外の被造物が世界(被造物同士)にたいして責任をもたず、人間だけが世界にたいして責任をもつ。それは、人間だけが神を前にして責任を釈明し、責任をとらされる存在だから、つまり超越と人間との独自の関係ゆえである。

キリスト教と生命科学ー責任概念を中心にして

人間の謎はいろいろあるが人間のみが責任をもち責任を負わされ責任を果たすことを要求される、人間は生まれた時点ですでに重い責任(カルマ)を背負ってくるからだともなる人間はこの世に生きることは責任があるというときもう存在するだけでもそうである
空気を吸い水を飲み動物を植物を食わねば生きていけない、存在ふることは他の生命があって生きられるのである、だから何かを食べるだけで責任が生じている
食べ物でも食料でも大事にせねばならない責任が生まれるている

一体動物であれ植物であれ鉱物であれそれらが何であれ責任を問われることはない、
残酷に他の動物の肉を食べるからとそんな残酷なことをするものは死刑だとはならない、犬猫を飼うものでも犬や猫が勝手に子供を生んでも
そのために野良犬になり野良猫になってもその親に責任があるとはならない、むしろそれを飼う人間の方が責任を社会から問われるのである、生物で責任をとらされるのは人間だけである
それはなぜなのか?その答えはかなりむずかしいものとなる

これまでも原発事故のことで責任のことを書いてきた
一体原発事故の責任は誰にあるのか?
それを追求してきた、また責任をもちうるのは誰なのか?
責任をもちしるのは問われるのは資本主義では金をより多くもっている者であり
金の額に比例して責任が重くなる
だから江戸時代では十両盗むと打ち首になった
金はわかりやすい責任の具体的な指標とるからである

なぜあらゆることに人間は責任を問われるのか?また責任を課せられてそれを負うのか?それはカルマ論ともなり不可解だとなる、それは神学的哲学的問題にになるからだ
人間はあらゆることに責任があるというとき責任をとらされる
借金することは自由である、でも必ず返すことを要求される、責任が借りたときに生じていたのである。返さなければそれ相応の責任を負い江戸時代に遊女に売られたとか現代でも過酷なとりたてにあう
人間は何するにしても責任が問われる、恋愛なら好き嫌いで別れたとしても子供ができれば責任をとらされる、結婚は大きな責任の上に成り立つ、財産があれば離婚すれば金で支払うことになる

人間はあらゆることに責任が課せられ責任を負うことが定めである
人間は極端になれば何でもする自由がある
親鸞のように千人殺してみなさい、それであなたの罪深さを知りなさいともなる
つまり千人を殺す自由がある、でもその責任もある
その責任を果たせる人はそうしてもいいとなるのだ
要するに人間にだけまた自由が与えられているのだ
動物はただ本能的に生きるだけであり自由はない、自らの意志で決断するとかはない
ただ本能に導かれて行動するのであり動物には人間のような自主的に決断するものはない
人間は自由であるから何をしてもいい→人間には責任がある→責任を負わされる

例えばカルト教団に入るのも自由である、ではそのカルト教団がどういうものなのか?
入る人はただみんなが入っているからと容易に入る
でもカルト教団に入った人は必ずその責任を課せられる
自分はそんな責任を負うことはないと思っても課せられる
オウムでもそうだった、そこに入った人は高学歴の優秀な学生であり優秀な人たちだったでも結果的には麻原にだまされたとか逮捕されてからは言うようになった
そして最近幹部がみんな死刑になった
その死刑になる時責任の重さを知らしめられたのである。
その時後悔してもどうにもならなくなっていたのである
だから行為の結果というのはカルマは厳しいものになる
そうしたら安易な行為はできないとなるのだ

人間は自由である、何するにしてもカルトだろうが何だろうがその教義を勝手に解釈して殺人集団になってもいいとなっていたのである
しかし人を闇雲に殺した結果としてみんな幹部は死刑になったのである。
その時その過ちを悔いてもその責任を負わされたのである。
もちろん死刑には疑問があるにしろ実際にそうなったときその責任の重さを自覚したことは確かである、世の中はやはり外から見ても厳しいものだと自覚する
目に目を歯には歯をであり殺したものは殺されて当然だともなる

江戸時代には庶民は侍になりたくなかったという、それは侍は責任のために切腹させられたからである,それが責任の取り方だから庶民はそんなことは嫌だとなり侍になりたくなかったのである。
侍がなぜそれほど責任を課せられていたかというと今のような民主主義などない
身分社会だから侍が模範となる社会でありその模範となるべきものが悪を成したら厳しい処罰として切腹させられたのである
責任者がはっきりしていたのが江戸時代だったとなる

責任というときいろいろある,あらゆることに責任が問われ負わされるのである
原発事故では漁業組合とか船主の責任が問われた、それはそれだけの金を事故前も事故後ももらっていたからである
つまり漁業権をもつ権利があったのだがその権利を行使したのはいいとしてでは原発事故になったら責任が問われた
なぜ漁業権を東電に売り渡したのだ、その責任はどうするのだ
事故後もなぜ手厚い補償金をもらいつづけているのだと問われる
このことは双葉や大熊の町民にも問われたのである。
他にもいろいろな責任が問われた、政府でも官僚でもマスコミでもあらゆるものの責任が問われた、それはなぜなのか?

権力を持っても権利をもつものは責任が問われる負わされる

責任をもつものはまたそれだけのことを行使できる権力をもつものなのである
江戸時代には庶民は何の権力もないから侍が政治を行うのだからその結果の責任は侍がとらされていたのである
だから権力がないものは責任もないのである
報道でもそもそも江戸時代には報道などない、瓦版などがあったとしても報道に値しないだろう、とすると情報でも侍がすべてもっているのだから庶民は何もできない
でも明治以降は新聞でもなんでも報道する権利を与えられた
だからこそ今度は報道する権利をもち権力をもったものには責任が問われる
マスコミに風当たりが強くなったのはテレビでも六局しか報道の権利を与えられなかったからである、出版でも必ずしも自由とはならなかったからである
情報は報道はマスコミが独占していたからである

となれば権力をもつのだから責任が問われ負わされるのである。
でもそういう自覚をもって報道していたマスコミはない
だからこそ政府と官僚とマスコミなどが一体となり強固な安全神話は作られたのである。
責任が誰にあるのか?それはまず権力をもったのもが問われてしかるべきなのである
報道もできないとか何も言う権利もないとかなればその人に責任はないのである
それは江戸時代と同じであり責任をとるべきは侍となりその侍になっていたのが政府であり官僚でありマスコミでありまた電事連とかの労働組合でもあり権力をもつものがみんな一致して安全神話を作ったのである
だから今はこうして権力は団体になり組織になり会社になりその責任が分散されてあいまいになり結局誰も責任はとらないとなったのである。
侍のようになっていたら切腹するべきものだったのである。
でも東電の社長であれ誰も責任はとらなかったのである

責任とは権力ももつものが一番責任がある、その地位にある人が普通は一番責任がある
でも誰も責任はとらないのである
責任はとらなくても必ず人間社会では責任をとらされるのである
原発事故後は人は住めなくなった、荒れ放題になりゴーストタウンになった
その責任はそこに住む人もとらされたのである。
誰かが必ず責任はとらされる、それが人間の宿命である、カルマだとなる 

自己決定権の対極として有している。それは、自ら決定することのできない「偶有性」(contingency)に起因する責任である。ここでは、さしあたりこの責任概念を「偶有的責任」と呼ぶことにする4。自己決定権が、行為者が自らの行為結果の責任を負う、という意味での因果法則あるいは応報主義に強く規定されているのに対し、偶有的責任は因果法則に拘束されていない。なぜなら偶有的責任は、自己決定に基づく責任とは反対に、自分で選ぶことのできなかった、あるいは決定することのできなかった状況から生ずる責任概念だからである

自己決定権というけど銀行で投資信託をうりつける、確実に手数料が入る
でも営業の銀行マンは私たちは金融のプロですからまかせてくださいと言った
そうか、プロならまかせていいのかと思いまかせて失敗だった
地銀などまず証券のことなど素人並みであり知らなかったのである。
適当に選んで投資したのだが分散投資とかするのは方法として間違っていないしそのことを言っていた、でも株が上がったとき投資信託に回した、Jリートに回した
その株をもっていればリ−マンショック以来もっていた株だからかなり利益を出したのである、分散投資のルールを自ら守らなかった
そして責任を問われるのは決めたのは自分であり自分がとることになった
自己決定するにしてもそれが専門でもないし知識がないし経験もないからプロに頼むのである、結局自己決定権を銀行は自らの利益のために奪って他者の金を投資した
その責任はとらない、手数料だけはとるというだけだったのである

ここにも誰が責任あるのか?それが問われる,どこでも責任問題がある
だから契約がこまかく規定しているのは責任を逃れるためなのである
家が雨漏りして直してもらって結構な金をとられた
でも雨漏りは全然直っていなかった
そうならば最初から直らない場合は金は払わないとして仕事させる契約すべきだったとなる、無駄な金を払っただけだとなってしまったからである
それはどこきょ分野でも医者でも常に人間は責任を問われる、そうなると何でも簡単には引き受けられないとと普通はなる、でも原発は恐ろしいものでありそんなものが事故を起こしたらその責任は誰がとるのだとなっていた
現実に補償金は払ったとしても誰もなんらか罰せられることはなかったのである

人間は何かするにも常に責任が問われるとき責任を自覚して仕事をしないと後で責任が問われるから慎重にもなるし真剣にもなる、何でも簡単に引き受けられないともなる
戦争でもどうして起こしたのか?結果として3百万人死んだ、その責任は誰がとるのか?もしそうなら戦争をするには相当な深慮遠謀が必要だったとなる
その結果の重大性を考えれば戦争が強いられとしても簡単にはできない
その犠牲をみれば戦争をしない、もう苦しくても戦争はしないという選択もあったと思うからである、男は戦争で死ぬのが当たり前だという理屈は成り立たない
ともかく行為の結果として必ず責任が問われる、だからこそ簡単に行為に踏み切ることはできないともなる

家族でも何か困りごとがあれば災いがあるとしたら家族の誰かがその責任を問われ負わされる、自分はその責任を負わされたことを介護とかで苦しみそのことを書いてきた
自分はただただ病気になっていても責められるだけだったのである
それも自分のカルマとしてその責任を負わされたのである。
でもそれが宿命でありカルマだったとなるからどうにもならなかったのである。
人間は責任からカルマからのがれられないのである
自由である、権利を主張してもいい、でもそれには責任が課せられる
自由や権利ばかり主張しても重い責任があるということを知るべきである

それはあらゆるところにある、明治以降私有権が認められたが結果として私有する権利はある、でも山でも土地でも所有することには責任が生じる
山は入会権として村人がみんなで管理していた
でも私有権が認められると山は無数に分割される
でもその分割した所有した山の一部分を守るかとなると守れない
なぜなら山とは全体のことでありそうした私的所有だけで守れないものだからである

この辺では荒地になっている所がまだ多い、また全国的に耕作放棄地が増えている
ではそのままにしていいのか?そんな土地を所有していることができるのか?
それは美観的にもいいものではない、何もできずに荒地にしている人には私有する権利があるのかとなる、それは空き家の増大でも言えた
それで法律が変わりそうした放置された空き家には税金が高く課せられることになった
つまりただ放置しておくと税金を高く払わなければならなくなったのである
私有権が与えられたからとそれで何でも自分の利益にしようとするができないのである
疎の私有する権利が与えられてもではその土地を有効に活かして利用できないものは土地をもつ権利がないとなるのだ

ともかく人間はあらゆることに責任が課せられる、負わされる
インタ−ネットとかでも発言が自由になれば責任を負わされる
何を言ってもいい自由である、でもその発言には責任をもてよとなる、負わされるのである、そう自覚しなくても今やそうなりつつある
それは誰でも発言できるようになっから権力を与えられたからだとなる
ただでは無数にあるプログで発言してどれだけの責任があるのかともなる
マスコミだとテレビでは真実が報道されないのは必ず様々な団体から抗議が来るからである、盲人のことを言えば盲人団体から抗議されるしカルト宗教団体を批判すればその団体から抗議がくる、こうしてもう何も真実は報道されなくなったのである
それぞれの団体が権力をもっているからである

でもそれぞれの団体にもただ権力をもつだけではない責任が課せられ負わされているのである、数が多いからとあらゆることが通るのかとなるとそうはならないからだ
だからその団体組織でもあなたたちは誰が責任をとるのかと問われるのである。
あなたたちは数が多いからと責任が免責になることはないのである。 
今は江戸時代と違うから庶民でも民主主義の社会では責任をとらされる
庶民にも権利が与えられれば一票でもそうだし権力をもたさればそれを行使したものには責任が問われるのである。責任が課せられて責任を負わされる社会なのである。
ただ数が多いと責任が分散されるのである
戦争でも国民に責任があったとなると国民全部に責任があるとなる
結果的には誰も責任がないとなっている

原発事故でもそうである、原発を誘致した地元の人にも責任があり原発を選んだのは国民だとなり国民全部に責任があるとなり結果的には誰も責任がないとなる
そういうことは日本では多い、責任の所在を明確にしないのである。
そして日本ではまた同じようなことが起きてくる
どうしても責任あるものとはその権限がある者でありすべての人に等しくあるとは思えないからである。、そして情報でも正しい情報を与えらなければ判断しようがないからである。複雑な社会になればもう自己決定権があるとしてもできないのである
原子力のこと放射能のことがわかるのかと言われればわからないとなりどうにもならないすると専門家にまかせる、まかせられた専門家が責任をとるとなる
でも実際は専門家も責任はとらなかったのである


タグ:責任論
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