現代の旅では風景も記憶に残らない
(浮世絵から見た江戸時代の風景を俳句にする)
松の間に残雪の富士野の広し
程ヶ谷から戸塚にかけての松並木はその美しさで有名だったそうです
時間は謎である、時間はないという人もいる、空間はあっても時間はないという、空間があって時間がある、なぜなら空間は宇宙は消滅するということが言う人がいるからだ
だから時間はもともと人間が作り出したものである
時間を感じるのは朝になったり夜になったり太陽の変化で時間を感じる、何か時間を量でも計ることができる
砂時計なら時間を砂の量で計ったりする
水時計なら水の量で計る、時間は空間があって時間がありうる
距離があるとしたその距離を行くのに時間がかかるとなる
だからまず空間がなければ時間はありえないのである
人間の一生でもそれは時間が限られているというとき時間は無限大にはない、生きられる時間は決まっている
ただ空間は地質時代でも原始時代でも同じ空間を生きているのである、その空間は消えたりしていないからである
でも人間が生きる時間の感覚は違っている
時間が早く過ぎたり遅く過ぎたりする
江戸時代は時間が遅く過ぎていたと感じる
その時間の感覚も今のように一分刻みではない
時の鐘があってもそれはおおざっぱであり時間の感覚は今とは相当に違う、一日の感覚も一生の感覚も違う
短命であったからその体験したものが今の人より希薄だったとかならない、時間の密度が違っていたのである
長く生きてもそれではその人はどれだけの体験をしたのか?
それをどうして計るのか?それは一概にできない
いくら長い時間を生きても長生きでもそこで何を体験したのか?
そしてその体験をどう消化したのかとかで違ってくる
旅したことでこれまでプログで書いてきた
今交通手段が発達して新幹線で日本縦断だって一日でできるとする、ではそこで旅をした体験として何が残るのか?
ほとんど何も残らない、景色もまた人との出会いもほとんどない
それは早すぎるためである
もし歩いた旅なら旅も道連れとなりその人でも景色でも記憶される、現代の旅は記憶されないことが多い
車が次々に流れてゆく、でもその車の人と対話はない、誰が乗っているかもわからない、ただ機械が猛スピードで過ぎ去ったという記憶しかない、何も脳裏に記憶されないのである
それは自ら旅する時でもそうである、早く過ぎ去るために記憶に残らないのである
街道の松一本一本や秋陽没る
この時自転車から歩いたから一本一本の松を見て歩いたから記憶する、でももし自転車ですら通り過ぎると記憶に残るのは一本一本の松ではない、自転車でも電車でも見る風景が変わって見えるのである、何かだからこの浮世絵の街道の風景でもそうである
橋の欄干にもたれて川を見ている人がいる
川を帆かけ船が上ってくる、その橋を荷物を背負って行く人もあり侍もわたる、その橋は人を記憶している
何か現代では欄干があるとしても大きな橋であり絶えず車が行き来するからそういう風景をすら失っている
江戸時代なら戦前でも車社会ではないから歩く人と風景は一体となっていたのである
車は何か風景を引き裂くようにして暴走するのである
車と風景は一体となりにくい、電車はその点撮り鉄がいるように風景と一体化することがある、だから鉄道は人間的だから好きだとなる
欄干にもたれる人や春の暮
こういう橋だともたれたくなる、そういう感覚にさせられる、今はゆっくり橋にとどまり欄干にもたれるという余裕すらもてない、橋はただ車を優先にして通り過ぎる渡るだけのものだとなるからだ
江の島遊行寺橋
欄干に雪の積もりて下駄に行く
人去りて橋に行き積み夜となる
人去りて雪に消えにし下駄の跡
歌川広重 名所江戸百景
京橋竹河岸
満月や棹さし行きぬ舟一つ
満月や竹運ぶ舟と知られけり
竹運び今夜は休まむ江戸の月
橋高く満月見ゆや京橋に
それぞれに行く人あれや秋の橋
京橋というとき竹河岸であり竹の集積場になっていた
職人の町でもあった、日本橋の前に京橋があった
竹の多くは、千葉県から高瀬舟に載せて京橋川に入って来たものや、群馬県から筏に組んで送ったものであったという。青竹が連ねられている竹河岸の様子は、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれており、
林と見えたのは竹だった、竹を高くしているのは見た眼とは違って絵にしているからである、竹を強調しているのである
これは提灯をともしているから夕方の風景だろう
ただ満月となると月明りでも明るいとはなる
江戸時代の橋は人間と風景が一体となったものである
橋の役割は今とは違い大きい、江戸だからこそこれだけの大きな高い橋があったが地方では橋は貧弱だったろう
欄干さえないのも多いのである
この風景を見る時でもそこに記憶されたものがある
当時の風景が人間と一体となり浮世絵に記録された、記憶されたのである、写真がない時代だから浮世絵から当時を見るとなる
川を舟がゆっくりと棹さし行く、その時何を積んでいるのかわかる、竹なことは月明りではっきりする
どこから来たのかはわからないが千葉県の下総とか群馬県上州とから竹を積んで江戸に来たとなる
この風景は当時の生活を偲ぶものとなる
江戸は川を利用して物資が運ばれていたのである。
今は日本橋も京橋ももう当時を偲ぶものはないし東京では江戸時代を偲ぶものはほとんど消えた
だから東京はつまらないのである、何か過去を歴史を感じるものがない、特に江戸時代はほとんどないからわからないのである
だからもう江戸時代はイメージの世界であり浮世絵とかからイメージしなければなにもないとなる
ただイメージするとリアルな感覚が消失するから見当違いのことが起きてくるのである
ここで言いたいのは時間の密度は空間と一体となり記憶されていたということである
橋は今ではただ遠すぎる渡るという機能だけである
そこに人間的なものが省かれる、ただ車が通りすぎるわたるといってもその時間が歩くのとは違うから一瞬にして過ぎ去るというだけなのである
風景とも記憶されるのはそこでの時間感覚とか空間感覚があり
それは江戸時代とは今では違うのである
雪のふるなかを笠さして橋を着物姿の女性が下駄をはいて静々とわたる
欄干に雪が積もり女性は去ってゆく、その後にも雪はしんしんと降っている、そこに橋と人間と風景が一体となって記憶されるのである
そういう空間とか密度ある時間が消失した
人間の体験は希薄化しているのである、だから旅してもただそれは空間の移動でありそこで濃密な記憶に残る体験がしにくいのである、それで旅してもどこに行ったのかさえわからないことにもなる、団体旅行だと女性ならおしゃべりで終わりその風景の記憶が残らないのである
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