療養型病院にいる老人はよくしゃべる。多少認知症になっていた。自分の住んでいる場所がわからないのだ。何度も寺内に住んでいると言っていたが橲原だったのだ。これはずっと山の方であり町からはかなり遠い、ここで一人で暮らしていたとなると買い物すらできない、甥子の嫁が世話していたが橲原は遠いから大変である。この老人は85才であり多少ボケている。でも話はわかる。いつも寺内に住んでいると言っていたから寺内だと思った。寺内だと町に近いが橲原だと遠い、この人の話は良くわからない面あるが驚いたのは小池に炭鉱があり炭鉱で働いていたという。常磐炭鉱は有名だが小規模の炭鉱が各地にあった。福島県でも130もあったのだ。戦後まもなくは石油ではなく炭鉱の時代だった。エネルギ−は石炭に頼っていたのだ。それで北海道では石炭を輸送する鉄道網が整備されたのだ。夕張などもそうである。小樽までも石炭を運ぶために鉄道がひかれた。常磐線も東京に石炭などを運ぶものとして常磐線が平駅まで伸びた経緯がある。炭鉱では女性も働いていたのである。また炭鉱には各地から出稼ぎ者も来ていた。常磐炭鉱にも来ていた。戦後まもなく働き口がなく炭鉱が以前として有力な働き場所となっていたのだ。戦後引揚者が来たとき、働き口がなく困っていた。それで以前として農地を開拓することがつづいていたのだ。病院にいる老人の姉妹も満州から帰り一時橲原にいたという、それから北海道に移った。その頃また北海道に移住しようとする人が結構いた。明治維新の時、武士が北海道に移住したように以前としてフロンティ的なものとして北海道があった。近くの自転車屋も北海道に移住しようとしていたがここで繁盛するようになりとりやめた。
1947年に制定された労働基準法は64条2項で女性をトンネルや鉱山など地下にある工事現場で働かせることを禁止しています。当時は石炭産業の全盛時代で多くの女性が炭鉱などで働いていました。当時の炭鉱は劣悪な労働環境なところが多かったので、母体を保護する必要がありこのような規制が設けられました。
戦当時の満州周辺の在留日本人数は約155万人。引き揚げまでに約24万5000人が死亡し、約130万人が日本に引き揚げたという。
当時は戦災等で国内に住んでいた人すら職場はおろか住居や食べ物すらない人が大勢いました。満州からの引揚者は逃げてくるのに精一杯で着の身着のままでした。
身内や知人すら自分が生活するのにやっとなのに引揚者の面倒など見れないという空気だったと思われます。
開拓入植者の現在員総計3,310世帯中引揚者1,280世帯で39%を占めていた。
http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n586.htm
戦後の満州であれ引揚者が大量に帰ってきても日本には働き口がなかったのだ。どうして食べていいかわからない時代だった。その時引揚者の男性が帰ってきてベビ−ブ−ムが起こり団塊の世代が誕生した。ミルクも手に入れるのが大変で父は並んでやっと手に入れたとか子供を育てるのも容易でなかった。その時父がなぜイタチとりとかしていたのか不思議だった。遊びでやっていたのかと思っていたがイタチの皮を剥ぐ作業をしていたからイタチの皮を売ることを考えていた。それを家でやっていたのだから臭いし汚れたものとなった。こういう仕事自体嫌われ差別された部落が生れたこともわかる。その後三文店屋を駄菓子屋を開き繁盛した。ともかくその頃仕事がないからこそ北朝鮮が楽園だとかブラジルに農業に移住するとか満州時代と同じように農業のための移住がつづいていたのである。満州にかかわる人は全国に多かった。満州を維持するために日本は日清、日露、大東亜戦争と継続して戦争をしてかえって大損害をこうむったのだ。それも満州へ農業のための土地を求めたことに原因があったのだ。原町に満州村があったというのもそのためである。満州へ満州へ草木もなびくという時代があったのである。韓国に住んでいて引き上げた人も鹿島区にもいたしどこにでも相当数いた。
ともかく老人は一人一人生きた郷土史になっている。ボケていても昔のことは良く語るから注意深く聞いていると郷土史の生きた語りとなっているのだ。橲原−ジサバラという地名は全国でもめずらしいからキ-ワ-ドで調べている人がかなりいる。これを橲原と読める人はいないだろう。なぜこの名がついたのか前に書いた。橲原はすでに江戸時代から木材を供給する山守が住み紙漉きをしていて郷士も住んでいた。ただやはり橲原に人口が増えたのは明治時代以降である。林に隠れた粗末な石くれの墓地には江戸時代の墓は見あたらなかった。明治以降の墓である。郷土史というとむずかしいことではない、老人一人一人が生きた郷土史なのである。だから祖父のことから聞いた話でも郷土史なのである。そういう話を全国レベルでは相当インタ−ネットにでていて興味深く読んでいるが相馬内では極めて少ないのが残念なのである。そういう話をインタ−ネットでデ−タ−ベ−ス化することが向いているからだ。郷土史というとこれは出版の世界ではそもそも本を出しても売れないし学術的なものも売れない、売れないものは本屋でも置きたくない、そもそももはや本とか書店とか情報分野では必要ないものとなってゆく、商業化ベ−スにのらないものが切り捨てられていたら保存すべき記録すべき歴史も切り捨てられる。出版社とか書店とかの存在価値は喪失してゆく、文化的なものはすべて商業化することに向いていなかったのである。ボランティア的にやるのが向いていたのだ。それがインタ−ネットだと無料で出せるから郷土史と医療関係の情報は膨大なのである。老人から話を聞くと具体的になり郷土史が身近になるのだ。橲原にそんな人が住んでいたんだとなりこの人は橲原に死んだら埋もれるのかとなり橲原に親しみを感じることになる。実際に老人は余命が短いからその話を聞いておかないとわからなくなるから聞いておくべきなのである。
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追記
俺が入院した時は、周囲皆おじいちゃんだったなぁ
満州にいた時の話とか、引き揚げてきた時の話とか面白かったなぁ
400円渡されてはしゃいでたら、戻ってきた時には大金じゃなくなってたとか
病院で話をしていた老人自体が満州の引揚者だった。鹿島区でも満州の引揚者がいて仲間で船で帰ってきた人のことを言っていた。金のことをしきりに言っていた。金をたくさんもってきて一人じめしたとか言っていた。その人は満州の鉄道で働いていたという、満州にかかわった人は多いことがこれでもわかる。この金は日本にもってきても利息三文になったろう。事実戦前に事故で死んで多額の保証金をもらってこれで一生暮らせると言われたがその金が戦後紙屑になったのだ。残ったのは二反買った土地だけだった。経済の変動が大きいと紙幣は紙屑になる。満州から財産をもって帰ろうにも満州の価値は土地にあったし土地はもって帰れないからただ犠牲だけが大きくなったのである。
○不穏な朝鮮人の動き
これも、突き詰めてみれば「流言蜚語」のうちに入るのかも知れません。旧満州の新京でも(後に数年滞在した間島省都の延吉街は、住民の大半が朝鮮人で、現在では延辺自治区となっていますが)朝鮮人が住んでいる区域があったようです。
新京にいて朝鮮人のことをしきり言っていたから満州と朝鮮は深く関係していた。逃げるとき子供を産んだ女性がいて悲惨だったというのは本当だろう。そんなときなぜ子供をうわのかやはり若い夫婦なら妊娠していてそのまま終戦になった。満州には民間の人が多かったのである。
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橲原に住むといふ老人を病院に知りぬ蝉しきり鳴く
橲原(じさばら)のジサはエゴの木だった
http://www.musubu2.sblo.jp/article/17460576.html
戦後引揚者の入植
http://www.musubu2.sblo.jp/article/17459884.html
農民が土地を求めた満州に戦争の原因が・・・
http://musubu.jp/jijimondai38.html#man
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