2018年10月01日

情けは人のためならず (自己責任は必ずある)


 情けは人のためならず

 (自己責任は必ずある)

他者の感情に対し共感する感情の同一性を指す。」
「英語におけるSympathy(同情)の語源としては、ギリシア語より由来し、共に苦しむこと、感情が同一になることを指している。これより転じて、同情とは他者の苦しみに応答して、自らも苦しむような感情を持つ。」

情けが仇(相手にかけた情けが逆に悪い結果を招く、という意味)

情けをかけることは悪いことではない、しかし情けは人のためにならずというとき何なのか?
その人は困窮していることはわかるし障害者をもったりといろいす苦労の連続だったということ雇われた人から金をもらえなかったことなどで同情した
ただそれにも限界があった、次から次と金をせびり要求する
消費者金融から借金していてそれも自分が払って返してやった
でもそれがまたとりたてにきたとかもうここ三年間そのことをいい要求してくる
これで終わりだといっても要求してくる
仕事は実際は何もしないと同じである
ただ金ばかり要求してくる、それじ事情があったから援助していた
でもこうなるときりなくなる、その人はなぜ借金とりにそんなに払わなければならないのか?そのことがわからないのである
ただ百万とかの大きな金でないから一万だ二万だと5千円だとかこまめに要求するから払った、そういう方法はうまいと思った
事業した人などは金の額が大きすぎるからとても借金して要求されてもできない
億の金が必要になるかもしれないからだ
現実に自分が苦しんでいる時自分の全財産を要求してきたからである

情けが人のためにならずというときなぜなのか?
それは同情するにしても人間は必ず自己責任がある、その自己責任とはカルマなのである何かしらカルマを積んで結果的に苦しい目にあう、それは同情に値するにしてもそこには必ず自己責任がその人なりのカルマがありそれを全部肩代わりすることはできない
それを情けをかけるのはいいが負担が全部自分にかかってくる
そうするとその人は自己責任として逃れる、でもその人は援助しても延々と借金しているのかもしれない、歯止めがない
例えばギャンブルなどで金を使って借金して借金を要求されたらたまらないとなる
延々として要求されるしそれでギャンブルをやめるわけでもないからだ
それで覚せい剤中毒の息子がいて有名な芸能人が一か月百万も小遣いを払っていたというその息子は40歳近くになっている、でも薬をたつことができずまた逮捕された
つまり親でも情けは人のためならずとなる、それで更生できるならいいがならないからである

人に同情するというときこれもむずかしい、事業に失敗した人はあまりにも軽い気持ちで事業をはじめた、資格をもっているし技術者で優秀だから事業をはじめたが経営者と技術者は違っている、その人が事業をはじめた理由はただ自分が優秀だからその優秀さを認めさせるためだともなる、何か社会的事業として社会に尽くすということはない
それで失敗して借金を要求してくる
その人は上にたって人を雇うとか導ける人ではなかった、ただ技術者としては優秀だったとなるから会社で技術者をしていればそれなりに優秀な人として通っていたのである
その人はまず人のためになにかすることができない人である
なぜなら自分が苦しんでいる時、軽い荷物一つも持つ気持ちがなかった
ただ金が欲しいというだけである、でも金は百万以上くれたしまた他にも貸したのであるだからただでやらけたわけではなかったのである
ただその人は他者のために軽い荷物一つても持つ気持ちがない人だった

そういう人が上にたてるのか?社長とかになれるのか?
ただ社長とかでもいろいろあるしブラックもあるからそういうものなのかとも思う
でも上にたつ人でも他者に尽くすということが基本にあるから会社を経営できるのかと思った
もちろん自分がそうさせられたのは自分のカルマだったのである
自分の場合は社会から離れて会社に就職していないしそこでカルマを積んでいたから苦しい目にあった、まずニートとかなるとその結末は本当に悲惨なことになる
ただ人間は何もしないにしろ何をするにしろカルマを積んでいるのである
その結果が必ず老人になって苦しみとなって現れるのである
だから人のことは自分も言えないのである

人に情けをかけるというときここで起きた原発避難者のことを批判してきた
そのことで反発があったがこれも情けは人のためならずであった
多額の補償金をもらい仮説に絶えずボランティアがきて応援してかわいそうだとしてNHKからマスコミが同情して応援した
そのことで原発避難者はかわいそうな人たちとして特権化したのである
現実は毎日パチンコ屋通いでありギャンブルにギャンブラーになっていたのである
それは行政とにも問題があった、なぜなら働くとかえって補償金をもらえなくなっていたからである、そうなれば誰も働かないからである

でも全国でもNHKからマスコミがかわいそうな人たちとして応援した
ボランティアも今でも来ていた人がいた
それは悪いことではないにしろ何か原発避難者は被害者意識にこりかたまり同情されるのが当然だとなってしまったのである
それで仮設を提供した地元の人たちは不満だったのである
ただそのことは表立っては言えない、原発避難者からお前は人間の心もないのかとか怒られるからである、それで小高と鹿島の人は分断されたのである
鹿島の奴らはなんなのだと遠くからこんなに応援に来ているのに金のことばかり言っている、NHKでもマスコミでもみんなかわいそうだと応援しているのに何なのだとなり
怒りとなり険悪な関係になってしまったのである

こういうことも情けは人のためならずということがある
情けをかけたためにかえって自立心をなくさせたりただかわいそうな人たちとして他者に要求するだけの人となる、被害者は特権化する、被害者意識が過剰になるとただその被害のために要求するだけの人となる
そしてこの辺ではおそらくプルトニウムが二万年消えない被害のように二万年被害者だとして訴えて要求するだけの人たちになるかもしれない
全部原発事故のためだとなり子供に子孫にもそのことを言い続けるからである
それは韓国と沖縄とかとにたようになる、その被害があったとしてもそれを種にして50年も百年もさらに果てしなく追及されたらたまったものではていからだ
そういう地域はもう退廃してゆくだけだろう、すべて原発事故のためだと言っていれば通るからである

だから人間のむずかしいのは情けをかけるべきことがありまたやたら情けをかけてもそれはその人のためにならないことがある
それがむずかしいのである、ただ金を要求されて払っていてもそれが仇になる
有名な芸能人は金があるから息子に払っていた、でも立ち直ることができなかった
そこになんらか非情になることができなかった
つまり非情になることもまた必要だったとなる
ただそれだってその人によりけりなのである、息子でも別に会社勤めをしなくても真面目に何かを勉強したりしている人はいるからである
私は会社勤めに合わないししていない、親の援助でずっと生きていただけである
でもただ遊んでいただけではない、いろいろと勉強して今その成果を出しているのである

つくづくここ十年の介護やら自分の病気やらで苦労して感じたことは今でも諺がすたれず十分に通用していることは人間そのものが変わっていないからである
確かにテレビを見てインタ−ネットをしてスマホをして車に乗って飛行機に乗ってとかいろいろ技術として科学として変わったとしても人間そのものは変わっていない
特別慈悲深くなるとかもない、情けでもそれがすべていいものとして働かない

金の切れ目が縁の切れ目

これも本当にそうだった、もう今になるとそれが極端になっているのである
みんなそうして別れて行った、これが世間だったとなる
だから諺は庶民から生まれたとしてそれが世渡りしていてみんなが感じたからそれが真理のようにして残ったとなるのだ

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/184562504
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック