家族の認知症介護から学んだこと(哲学的考察)
(人間とは何か−抽象化能力と感情の問題)
「心身のリアル体験」では、幼少期から様々な遊びや運動、海や川や砂遊びなどの匂い、空気、温度などの肌や実感覚による体験や、「嬉しい」「悲しい」といった感情などを通して学ぶプロセスです。
ここにグラフがでているからわかりやすい、人間は具体的なものを抽象化する、これが文明を作り人間を人間たらしめたとなる、その最たるものが言葉であり文字だからであるだから文字のない文明が一段と低く見られるのはそれだけ抽象化能力が発展しなかったとなるからだ
最古の文明になると文字をもった文明である、エジプトのヒエログリフは神聖文字となり文字が神聖化された、中国でも漢字が発明されたとき神聖化されたことでもわかる
楔形文字は最古のものでありねこには法律のことも記されている
それから一番簡単なのは一つだったら一本の線を書く、二つだったら二本の線を書く
それで数量を計ることが文明となる,それがそれは時間の単位ともなる
時間も人間が抽象化したものなのである
算数と数学でもそれを上達するコツは数字は抽象化だが図形とかグラフにしたとき具象化する、方程式でも図形化するとそうなる
そして分数でも理解するには図形で理解するわかりやすい、数字からだと具象化していていなから理解しにくい、だから算数嫌いとか数学嫌いが生まれる
数学となると中学でもどんどん高度な抽象化になるからである
科学となるとさらに分子式でも抽象化になるからついていけなくなる
私も数学嫌いになったのはそれは抽象化能力の欠如だったとなる
ただそうであっても教育には工夫が必要なのである
分数だったら絶えず具象としての作業、図形化して納得する作業していると興味もわいて覚えることになるからだ
人間は常に具象⇔抽象の相互作用が学習なのである
パソコンのソフトで抽象画を作ってみたらやはりいくら抽象画でも川は川をイメージするし森は森をイメージする、全く具象画から離れることはありえない
抽象画でも具象画を見ようとしているのである
なぜエジプトで書記官が重要なものとして神官にもなったのか?
それはやはり麦などの収穫することを数量化したからである、その仕事は力仕事ではない頭脳の仕事である、それができたのは抽象化することができたからである
米の量を計ることは数字で抽象化したものだからである、つまり人間の知的能力の発達は抽象能力なのである、それは数字でもそうであり文字でもそうである
そして人間の文明は抽象能力から生まれたのである
抽象能力が高度に発達して文明が生まれた、文章を書くということはそもそも抽象能力によっている、言葉自体そうなのだが音より文字にすると抽象能力は高くなる
人間は文章を書くことによって言葉から文字から思考している
それをつくづく私自身でもこうしてインタ−ネットで他者の文章を読んで参考にして絶えず文章を書いていることでそう思った
文章を書くことでそもそもが思考を拡大して深化できるのである
文字には他にも記録するという大事な役割がある、人間はとにかく忘れやすい、自分の書いたものすら忘れている、膨大なものをインタ−ネットでプログで書いたがその書いた本人が忘れているのである、これも人間の特徴だと思った
だから人間は何でもこまめに記録していた方がいいと思った
旅のことでもそうであり忘れるからだ、いつどこにいたのかも旅したのかわからなくなるそしたらどうして記憶をよみがらすのかとなる、今は写真もいくらでもとれるからそれも記録になる、膨大な写真が映像がグローバルに残される社会である、デジタルの映像社会なのである、ところが映像は抽象化能力を高めるということが必ずしもない
具象的なものが表現が直接的に示される、すると抽象化する能力はいらないとなる
文字だと山なら山で川なら川で一応抽象化したものとしてとらえているからだ
漢字が優れているのは抽象化と具象が表現されているからだ
アルハベットになると文字があるにしても音の作用が大きい、アルハベットに具象の作用がないのである
だから漢字というのは中国文明を作ったものとまでなっているのだ
ただ人間とは何か?これを追求する時、抽象能力だけではない、人間の下部構造というか基本にるなベースとなるものに感情がある、悲しいとか淋しいとかうれしいとかある
人間は人間たらしめているのは反面に感情だともなる
動物を見ていると悲しいとか淋しいとか淋しいとか何か感情的なものが表現できない
人間は悲しい時涙を流す、動物は泣くことも笑うこともできないのである
ただうれいしという表現などはする、みぶりでするからわかる
でも動物に悲しいという表現がない、あるとしてもわからない
キリストが「悲しむ者が幸いなり」というのは本当に不思議だと語ってきた
それは心理学的にみれば悲しむことができるのは人間にはできるが動物にはできないからだともなる
そして人間はこの世を生きるとき必ず悲しむことになる
家族との死別があり様々なことで苦しみ悲しむからである
でもなぜ「悲しむ者が幸いなり」なのか?それは悲しむことで人生の深い意味を知るからである、悲しまないものは人生の深い意味を知ることがないのである
だからシェークスピアが悲劇で終わるからみんな考えさせる、ドラマでもハッピィエンドで終わるなら考えないのである、悲劇にこそ人間の深い意味を見出すともなる
それは悲しむことに通じているのである
人間とは何か?それは認知症の人と接するとわかる、家族が認知症になって介護したとき最も身近で生活してきた人がどうなったのかわからなくなる
そのことを介護して問うてきた,もう痴呆化して人間でなくなったのかという恐怖を感じた、でも接しているうちにそうでもないと思うようになった
確かに銀行から金をおろせないとか漢字でも書けない自分の名前すら書けないという抽象能力が極端に低下する、だからこれはもう人間ではないのか?
そうも思って驚愕して恐怖にもなった
でも認知症の人でも喜怒哀楽がある、感情的なものは普通なのである
だから自ら悲しむということがある、また喜ぶこともある
特にこれまで生きたことに誇りをプライドをもっているからそれを認めると喜ぶのであるそして認知症の人はなにもわからないのではない、相手が親切にしてくれる人なのか
愛をもって接してくれる人なのかわかる、だから認知症の介護は愛がないとできない
愛情に実は敏感になっているからだ、だから家族でも特に親しい人でないとできない
兄弟でも姉妹でもいろいろいいるからである
だから兄弟でも一番かわいがられた人が介護しろというのもわかる
そうでないとできないということがあるからだ
人間とは何かというときこれも不可解である、確かに抽象能力が文明を作った
でも一方で感情があって人間であるということがある
悲しむということ笑うことなど感情表現があり人間であるとなる
だから数字とか漢字が抽象化能力がなくなっても感情があれば人間だともなる
その人は愛のことはわかっている、動物でも愛は通じるのである
すると動物でも愛を感じるから人間と同じだともなる
そしてこの世で一番大事なものは愛だというとき愛が通じればいいともなる
愛が通じなくなったときそれは動物以下であり人間ではないともなる
知能がものすごく高い人がいても冷たい愛がない人も普通にいる
かえって知能が高いとかなるとそういう人が多いかもしれない、冷たい人が多いとなる
別に庶民でも知能が低いとみられる人でも正直で人情味があり愛のある人がいる
そういう人は戦前生まれの人に多いし江戸時代には多かった
それはなぜかというと現代のように知優先の社会ではない、義理人情とか情中心の社会だったからである
とにかくインタ−ネットでもグロ−バルに高度な知性が求められる社会である
江戸時代は狭い範囲で情が深い所で生活していたのである
それが村とか長屋とかであり貧しくてもそうなっていた、でも医者でも病気は治らないものとして接していた、だから医は仁術になっていた、直せないから仁が情をかけることだともなっていたのである
第一漢字の情報でも情に報えるとなっている、これは今の情報感覚とまるで違ったものなのである、どうしてこの漢字になったのかわからないがやはり何か江戸時代の感覚をひきづっていたからこの漢字をあてたのかとなる
いづれにしろ認知症というのは本当に不可解である、その介護をさせられるとなると本当に困難を極める、普通は人間とは何かなど考えないけど私は認知症の介護を通じて考えたそれはなぜなのか?それが心と関係していたからだろう
普通病気だと患部だけをみている、そこが痛いとか弱っているとかみる
でも心までは見ない、認知症の場合はどうしても脳と関係していて心をみるようになる
脳が損傷する壊れることは心にも大きく影響する、では人間の心とは何なのか?
それが最大の謎なのである、認知症の家族を介護してそのことを問うてきたのはそのためである
認知症の治療は介護は肉体だけを見てはできていからである
もし肉体的なものだったら癌であれ何であれ意識は明確であり知能も低下しないのであるただ肉体的な問題だけなのである
認知症は脳が破壊されてそれが心に大きく影響する病気なのである
すると数字がわからないとか漢字も書けないとか自分が住んでいた場所も名前もわからないというときあまりにショックになる、そんなことわからないのか馬鹿になったのかと最初は誰でもみてとまどうだろう、この人はもう人間ではないのだとまでなってしまう
でもふりかえるとそれでも人間だったと思う、人の愛はわかるし何か感情的には喜怒哀楽もあり今までしたことをほめれば喜ぶ、何か通じるものがあった、今になるとその時間が貴重なものとしてよみがえる、それは家族として長く生活してきて認知症になったとしてもふはり家族であり心を愛を通じ合わす時だったなと思う
今までは自分の場合はとにかく一方的に愛された良くされていただけだったからである
そのことで多少恩返しできたなど今では思っている
そう思うのはやはり介護でもその時は苦しいと思うのだが嫌だから死んでくれとも思うのだか死んでみるとみんなもっと良くしてやればよかったというのである
それはやはりもう一緒にいる時間がなくなった、もう二度となくなったことによるのである、もう話すこともなくなる、二度とその時間はもどってこないからである
人間は時間がすぎさる、青春だってあっというまにすぎさる
人間の生きる時間はみんな限られている、時間だけは平等であり特別長く与えられる人はいないし時間を金で買うこともできないからである
それで人間が一番無駄にしているのは時間なのである、金だったら十円得した損したとか過敏なのだけど一時間損したとかあまり考えないからである
家族でも一緒にいる時間はいつまでもつづくわけではなかった、そして介護となるときと死に向かっている時間である、もう二度と会えなくなる時間だった
その時間は貴重なものだったと自覚する
それは人生そのものがそうである、人間は永遠に生きられない、限られた時間しか生きられない、その時間の貴重さは失ってみないとわからないのである
何か貴重なものは失ってみないとわからないのである
だからみんなもっと介護でも良くしてやれば良かったというのはそのためである
家族と一緒にいる時間が全くなくなり何もできなくなったからである
ここに書いたものつづきです、読み直してまた書き続けるのがプログでありインタ−ネットである
連続したものとして継続して書けるのプログでありインタ−ネットである
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