2018年10月22日

柿のエッセイ(柿は日本で一番親しい果物−死んだ家族を思う)

                      
 柿のエッセイ(柿は日本で一番親しい果物−死んだ家族を思う)

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天高く馬肥ゆる秋草競馬

地に根付く変わらぬものや柿と松

ふるさとに墓を守るや柿なりぬ 

誰か住む小松に菊や小家かな

秋の蝶紋見せとまりSAによる


姉と母面影浮かび悲しかな故郷に住み秋となるかな

我が父は丁稚を勤め暖簾分けここに住みしも跡継ぎ住みぬ

我が母は大正生まれ柿好む貧しくを生き百歳に死す


原町の雲雀が原で草競馬があった、でも終わっていた
表彰式をしていた、この辺では野馬追いがあるからそうした催し物がある
馬というととき競馬だけどあれは馬が活きていない
馬は本当は草原のようなところで羊を追ったり走ったりしているとき活きている
だから草競馬などはギャンブルでもないしいいと思った
今は馬に親しむということがない、競馬だけになったから馬をみんな知らないのである

里ふりて柿の木もたぬ家もなし     芭蕉
                     
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺    正岡子規  


柿というのは何か質実なもの堅実なもを示していないか、ちょっと他の果物とは変わっている。昔の道を歩む、そこに柿がなっている、この柿と昔の道は良くあうのだ。果物というと外国産の果物はバナナでも食うだけであり日本にはなっていない、これは変なことなのだ。日本の土地に根付いたとき日本でとれるようになったときそれは食うだけでない文化となる。柿は寒冷地向きなのだろうか、橘というと南国をイメ-ジして万葉集にも盛んに歌われた。柿はなかった。柿の栽培はあとであった。日本では外来種の方が珍重された。梅も中国からきたものだしその梅が盛んに歌われた。日本人は植物からして外来種を外国のものを唐ものを尊ぶ文化があった。柿はその中でも食うものとして干し柿にもなったから食料として貴重なものだった。ミカンなどは食えるようになったのは江戸時代であり柿は最も早くから日本にあった。柿はどこの家にもあった。おそらく垣根とはこの垣は柿だったのだ。柿が植えてあるから垣根であったのかもしれない、それで大垣というのが漢字から石垣でもある城に由来しているのかと思ったらこれは「大柿」だったのだ

江戸後期から明治の初期にかけて生き(1805-1877)、備中松山藩に仕えた儒者・山田方谷(やまだ ほうこく)の手になる七言絶句の紹介です。
それも、「柿」を詠った漢詩のご紹介です。

○山村四時雑詠(冬)   山田 方谷
秋獲功終久息鎌  秋獲(しゅうかく)の功(こう)終(お)わりて久(ひさ)しく鎌(かま)を息(やす)む
更収園柿上茅檐  更(さら)に園(その)の柿(かき)を収(おさ)めて茅檐(ぼうえん)に上(のぼ)す
山邨冨貴初冬節  山邨(さんそん)の冨貴(ふうき) 初冬(しょとう)の節(せつ)
戸々斉垂赤玉簾  戸々(ここ) 斉(ひと)しく垂(た)るる 赤玉(せきぎょく)の簾(れん) 

柿というのはこういう風景として江戸時代からあった、柿はどこでもみかける、果物だとなかなか見かけない、この辺ではリンゴもないしミカンもない、ただ梨だけは豊富だからある、梨は安いのである
柿の不思議は柿というのに何か精神性を感じるのである
バナナとかミカンとか何かいろいろ果物があっても精神性を感じることはない、でも柿は別であり精神性を感じる
栗とかは果物には見えない、柿は明らかに果物であり実になっている
それから干し柿にもしているから冬の見慣れた景色になっている
柿はこれだけなっているのだから柿は日本の風景にとけこんでいた、そして柿はみんな食べていた
果物は贅沢でありなかなか食べられていが柿は食べていたのである

だから何か柿というとき見慣れたものであり確かに前の家の自分の庭にも柿の木があった
その庭は今の庭より広かった、そこに柿の木があった、渋柿だった、つまり街の中でも柿の木はあり柿の木は多かったのである
だから柿は日本の原産のようにも思える、でも中国が原産である、それでもKAKIとして外国津に伝わっているのはそれだけ日本には柿が多いということである 

私の家族はみんて死んだ、何かそれで父は早い時期に中学の時死んだので父のことは思うことがあまりなかった
それが家族がみんな死んだとき父を思うようになったのも不思議である
父は葛尾村から双葉の新山の酒屋に丁稚奉公した、そこで勤めて暖簾分けしてここに住んだのである
それは戦前の話である、戦後はまた違っていた、小さな子供相手の駄菓子屋みたいものを初めて店になり高度成長時代となり繁盛したその時は物がないから物を置けば売れたのである、それは中小の工場でもそうであり東京では人手不足になり集団就職で中卒が補ったのである

人間は親の影響が大きいのかもしれない、親が丁稚奉公したとか母が尋常小学校で原町紡績で糸取りしていたとか、あとは東京に女中になったとか、姉は従軍看護婦になり戦争で苦しんだとか兄は不幸にも集団就職してあとに交通事故で死んだとかそれぞれが戦前の歴史であり戦後の歴史になったのである
自分がここにあるのは親がいてその親の跡を継いでいるのである
だから歴史というと国の歴史とか大きなものがあるのだが実際身近かに感じるのは家の歴史なのである、それが二代でも歴史になるからだ
父親も母親も姉も兄も苦労したなとかなりそれを感じて生きることが歴史なのである
人間の生は一代で終わらない、必ず後の代にも影響する
それでカルマも受け継がれるとなるのである、カルマにもいいカルマと悪いカルマがある
この辺では放射性物質、プルトニウムの毒が二万年消えないとかのカルマを積んだのである

先人がどのように生きたかはその子孫に相当に影響するのである
もしそれを思ったら子孫のためにもいいかげんには生きられないともなる
そしてそういうふうに親のことでもかえって死んでから意識するようになる、父はこういう人だったなとか母は姉は兄はとかなる
だから死者というのは死んでからかえって意識されてふりかえることになる
つまり人間はそうして代々親から子へと何かを伝えて生きてきたのである
だから歴史の継承は大事になるのである、親がまともに生きていればその子もまともになるということは家系のことで言われることは納得する、ただ常に例外は人間社会にはある、親がいい人でまともな人でも子がだめな人もいるし親がだめでも子が立派になる人もいる、ただ一般的には親がまともに生きていれば子もまともになるというのが普通である

なんか家族がみんな死んでから、家族のことを思う、死者はどこにいるのか?
やはり故郷にいるのかもしれない、故郷をなつかしく思い死者はいるのかもしれない、ふるさとに面影として浮かぶのかもしれない
それは何か理屈ではなく感じるものがある 
いづれにしろ柿と松はあっている、それは変わらないものの象徴なのである
堅実であり質素な感じになる、精神性をもつ、そしてこの辺はあまりにも変わりすぎたのである
そのショックが未だに続いている、結局今や自分は墓守りなのか?
それには柿があっているのである                 
                           

タグ: 柿の俳句
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