戊辰戦争白河口の戦い
(東北列藩の敗北)
火縄銃とか弓で東北列藩は戦っている、その武器の差が大きく負けたとなる
「明治の精神」とは何か。私に言わせれば、薩長中心政府の野蛮な国権主義と対外拡張主義による「大日本主義」のことである。
そもそもなぜ薩摩長州軍が江戸無血開城したのに東北まで進軍してきたのか?
その必要がなかったのである、雌雄は決していたからである
そして東北列藩では穏便に治めるように嘆願していた
会津にもそれを言っていたのである
おそらく会津藩が京都で新選組と一緒になり討幕派の志士を殺害したとかを恨みに思っていた、何か血に飢えていたとか血気を抑えることができず暴挙になった
別にすでに東北列藩は降伏するとしていたからである
明治維新はクーデーター説が普及している、テロをしたのは薩摩長州であり幕臣はしていない、吉田松陰がテロリストだったというのもそうである
最初は薩摩長州で政権奪取を狙ったものである、ただのクーデーターであり武力による政権交代をねらっていたのである
ただその後の結果として廃藩置県とか別な方向に進んだのである
それは予期されたことではなかった、だから士族を残す西南戦争になったのである
明治維新を美化するのは阿部首相が長州出身であり長州出身者が首相になるということが多かった、それは明治のつづきであり影響していたのである
戦争になると怨念のようなものが生まれてくる、仲間が殺されたとなり会津を憎んだ、
そして血気にはやる青年たちを止めることができなかったのかもしれない
江戸で無血開城したのだから東北でもそれができるはずだったからである
ただ会津は東北列藩が薩摩長州に穏便にすますよう願いを出してくれと頼んだがしなかった、ここにも譲れないもはのがあり東北全体に影響した
結局薩摩長州軍が700人に対して東北列藩が2500人でも旧式でありまとまりもなく敗れた、絵では火縄銃とか弓だ戦っている、薩摩長州軍は外国と通じて新式の兵器で戦ったから負けたとなる、また戦いに慣れていないから負けたともなる
やはり戦争は経験していないと実践していないと強くなれないのである
それにしても江戸の無血開城のようにこの戦いはする必要がないものだったのである
それは薩摩長州にも非があったが会津とにも非があった
どうしても譲れないものがあり負けるとわかるような戦いでもあえてしたともなる
武器の差が大きかったからである、また士気も薩摩長州軍の方が高かった
この戦いは無駄な面があった、そして白河では一般の人も死んでいる
巻き込まれて死んでいる、それで遊女シゲは会津藩士に殺された
薩摩長州藩士の慰み者になったと殺されたのである
これも非情なことであった、そんなこと遊女には関係ないからである
他にも庶民もまきぞえになり殺された、流れ弾にあたって死んだとか敵に通じているのかとかで殺された
そういうことは戦争で常にある、戦争でなくても夫婦喧嘩でも離婚でも親戚みんなが巻き込まれるのである
暴力団抗争でも流れ弾にあたって死んだりするのである
つまり庶民は戦争で必ず犠牲になるのである
白河の妓楼坂田屋の志げは、長州藩士で奥羽鎮撫総督下参謀・世良修蔵にひいきにされていました。奥羽列藩同盟軍から命を狙われていた世良は、白河にとどまることは危険と察し、慶応4年閏4月18日に白河を脱出しました。(その後、4月20日に福島で斬首)
時は、明治2年。戊辰戦争の敗北を逆恨みした会津藩士が志げを殺害。その会津藩士は坂田屋の用心棒に殺害されて、その仇を討たれたと伝えられています。
東軍が大敗北を喫した 5 月 1 日の夕刻、農民大竹繁三郎は野に放した馬を迎えに行く途中、東軍の間者と間違われ殺害されました。西軍はこれを陳謝し、慰撫するために官軍待遇として墓碑を建立し
庶民もこの戦争の犠牲になった、ただ薩摩長州の戦死者も供養されて碑がたてられているそれは日本特有のものである、それを見た中国人はありえないと感心している
中国人は墓を暴いても敵を罰するからである
「顧みるに昔日もまた今日のごとく国民誰か朝廷に弓引く者あらんや。戊辰戦役は政権の移動のみ。勝てば官軍、負くれば賊軍の俗謡あり。その真相をかたるものなり」
こういうことだったのか?結局何か戦争では無駄な血が流される、太平洋戦争で3百万人も死んだけどそれも無駄な血が多かったとなるとやりきれないとなる
だからとにかく江戸の無血開城は称賛するべきものだとなる、無駄な血が流されなかったからである、まず世界を見てもいかに戦争で無駄な血が流されているかみればわかるからである
相馬藩は官軍に降伏して仙台藩と丸森で戦った、丸森の木の大砲の砲台がある
それだけ武器で遅れていた、それは薩摩長州はいち早くイギリス軍とかとも戦いそのヨ−ロッパの実力を肌で知っていたからである
そして武器も輸入できていた、その差があって東北列藩はあえなく敗れたのである
伊達藩鴉組 斉理屋敷に展示の「木製大砲と陶磁弾」
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