2018年11月07日

南相馬市の鹿島区の隠町(かくれまち)の地名 (隠田が地名としてなぜ多いのか?)


南相馬市の鹿島区の隠町(かくれまち)の地名

(隠田が地名としてなぜ多いのか?)


隠町その名の残り隠されてため池ありぬ秋のくれかな

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小山田の隠町

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溜池が田んぼの上にあった、SAの向かい側である、隠されるようにあった

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隠田百姓村ともいう。中世末から近世初頭にかけて戦乱の落ち武者や貧農によって山野の奥深くに開かれた集落。貧しい農民が年貢を免れるため,開拓する場合もあった。九州山地の五家荘,米良荘 (めらのしょう) や椎葉 (しいば) ,四国山地の祖谷 (いや) ,中央高地の白川郷や五箇山 (ごかやま) 郷などの山林はその好例。長く他地域の村と隔絶した生活を続けたので,昔からの風習や伝承,あるいは年中行事などを残しているところが多い。平家の落人伝説があるのは,多くはこうした集落である。


領主の側からすると、隠田の摘発というのはなかなか難しいという側面があります。そもそも土地をくまなく調査して正確な面積を割り出したり、隠田を見つけて課税するというのは、人手や時間、そして手間の問題もあって難しかったと考えられます。現在でも税務申告はルールにのっとった自己申告によるものになっており、それを一からすべて税務職員が調べるわけにはいかないのと同じです。

おんな城主 直虎

ここでNHKの大河ドラマを解説している、これも歴史の勉強になる、やはりドラマだと面白いものとして娯楽として見る面が大きい、それで学問的裏付けが必要になる
ここのサイトではそれをしている
最近私は宮廷歴史ドラマ「オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜」オスマントルコの後宮をテーマにした連続テレビを見ている
トルコにも行ったしイスタンブールにもいた、だから興味をもった、そしてこのドラマを見て歴史を知った、これは事実だったのである
歴史ドラマはやはり事実を知り学問的にその裏付けがないとドラマが本当の歴史だと錯覚してしまうのである、それが司馬遼太郎の過剰に持ち上げられた明治維新の小説だったのである


隠里の霊(二本松)−民話


隠田(おんでん)とか隠里とかは地名としても多い、そもそもなぜこんなに多いのか?
隠田は検地から逃れるための税金逃れのためだという、それより役所でもそういうふうにすべての田を調べることができなかった、それで放置されていた

隠里とかなると神秘的である、それは外との交流がない村が多いからそうなったのであるこの辺の民話で隣村から来た麦つきにきた若者が蛇だったというのもそうである
隣村さえ交流がまれだからそうなる、見知らぬ外の人となり神秘的になったのである
つまり交通が発達していなければそういう村は無数にあった、秘境がいくらでもあった
時代をさかのぼればのぼるほどそうなる、交流がもていないからそうなったのである
江戸時代だってみんな自給自足であり外との交流なくして基本的には生活していたのである

それで明治になって合併したが飯館の大倉村と佐須村では民情が違うから合併しなかったとなる、隣村同士でもそうなっていたのである
つまり隣村でも交流が少ない閉ざされた世界で生活していたのである
だから役所でも全部の田を検地できなかった、日本の地形が複雑なこともある
山に入ると本当にこんなところに田があり畑があるのかとなる所が多いのである
本当にそれは隠田にふさわしい、山の中に隠れたように田があるのが多いのだ

そういう話を相馬市の新田でも聞いた、あそこの杉のあるところが隠田だったとか言っていた
でもあそこは平坦な地でありそんなところが隠田になるのかと見た
ただこの隠田が日本全国に多いから地名も多いのである

鹿島区の隠町は隠田とはなっていない、だから必ずしも田ではない、町とは一区画のことだからである
小山田は寺内や小池より新しい地である、新しく開墾された、なぜなら寺内、小池には古墳が多いからである
村の新旧をまず見るのが大事である、海老村はエヒであり蝦夷に由来する古い村である
そこで弥生時代の住居跡が発見されたことでもわかる
右田村は江戸時代にあったとしても新しいのである、その新旧を見ることが大事である

鹿島区の隠町は偶然に常磐高速道のSAの向こう側が紅葉していたのでそこに行ってみようかと行ったら溜池があった
そこに隠町とあった、確かに隠されているようにあったともなる
ただそういう土地は日本には多い、山が多いからそうなる
相馬地域の特徴としてはそうして不便な所には越中からなどの移民が開墾して住んだ、なにしろ飢饉の時三分の一に人口が減った、その穴埋めをしたのが越中からなどの移民だった、その数が多いのである、三分の一も穴埋めしたとしたら本当に多い
だから相馬地域の墓地を見ると必ず南無阿弥陀仏の墓がある、それで見分けがつくのである

そういう移民はまず草分けの古い農家に草鞋をぬぐ、そして辺鄙な悪い土地を与えられて開墾したのである
だから確かに小山田でも塩アでもそういう隠くされるようないい土地ではない、小山田だったら平地の方がいい土地である
だからそういう人の住にくい場所を与えられて開墾して住んだとなる



タグ:隠里 隠田 隠町
posted by 天華 at 09:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代
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