2019年01月09日

デジタル情報とアナログ情報の相違 (デジタル化した情報だけでは真実はわからない)


デジタル情報とアナログ情報の相違

(デジタル化した情報だけでは真実はわからない)

spacetime111.jpg


数値を、長さ・回転角・電流などの連続的に変化する物理量で示すこと。⇔デジタル。

デジタルが「バラバラ」であることに対し、アナログは「並べると似ている、関連がある」という意味を持ち、連続性がポイントになります。

デジタルが「バラバラ」であることに対し、アナログは「並べると似ている、関連がある」という意味を持ち、連続性がポイントになります。

アナログ」は、元々
「類比」や「類似」を意味する
「analogy(アナロジー)」を由来とします。

「類比」は「比較すること」
「類似」は「似ていること」という意味です。

 つまり、
長針と短針を比較することによって、
曖昧ながらも時間を表しているということですね。

このように、アナログの語源を調べると、
数値は正確に一致している必要はなく、
曖昧でよいということが分かるかと思います。


デジタルというのは一部を切リとったものとある、分割して見るというのもある
アナログは連続的に変化する物理量とかなる
科学は苦手だがやはり思考するとなると科学的思考が自ずと生じてくる
文系はアナログ思考なのかもしれない、文系は全体に注目するからである
だからどこまでも分割して原子とかにつきあたる、そういうふうにどこまでも部分化して究極の原子とかになることが苦手だとかなる、思考できないともなる

この図で証明するとカレンダーで日にちを見ている時一か月のカレンダーを見ている時
一週間でもいい、必ずその日だけを切り取って見ていないのである
一週間がある、4日だとすると必ずその前後を時間として見ている
今日は四日だなというときその前の三日とか二日とかを見ているしその後の6日七日でもみている、日にちを連続したものとして見ている、時間を連続したものとして見ている
時計でも同じである、デジタルだと今の時間を一分一秒として正確に切り取って見ているでもアナログ時計になると24時間を見ている、24時間の中で今どこの位置にあるのかを見ている、だからアナログが類比や比較して見るから起きているというのもわかる

川を認識するときとても一部を切り取っては見れない、上流から下流とあり長いからである、そしてその中で川は激流にる所もありゆるやかに流れる所もあり河口のように広々と流れる所もあり多様なのである
川を認識するのにはそれだけ長いものとして見る必要がある
例えば川のような認識になると本は川とにている、始めがあり終わりがある
それは一つの川なのである、一方でインターネッがトデジタルだというときリンクして読む、一部分をリンクして切り取りつなぎ合わせたりする
本のようには読まないのである、一つの川のようには読まないのである

空間でもそうである、一部分で空間を認識することは絶対にできない、一つの場は大きな空間へ広がり大きな空間の中にしか存在しえないのである
土地とかは全体の中にありだからこそ私有には適さないのである
ここは自分の土地だから自分の思うようにするとしても山でも森でも大地でも連続してつながり一体化したものだからそういう私的所有を明治以降過度に認めた結果、山は無数に所有が分割されて山全体を公共のために利用できなくなったのである
飯館村でも放射性物質の処理場にするというとき現実にフレコンバックから雨で放射性物質が流れた、放射性物質は森から泥となって流れ川に流れてくるから南相馬市でも関係しているから勝手にしてもらっては困るのである
そういうことはいくらでもある、土地はつながっていてデジタル化一部分切り取って利用することはできないからである

道を例にとれば道を一部分きりとることはできない、道は連続していることに意味があるからだ、価値があるからだ、連続的に全体的に認識することがデジタル情報だとしにくいのである、でも実際は情報というのはどうしてもその現場に立つこともできないからデジタル化する、切り取った情報になり誤解を生むのである
それはニュースでもテレビ放送でもそうである、写真でも動画でもその場に立つことができないから写真でも動画でも現実を見ているとは認識しているとはならない
それはあくまでも一部分のデジタル情報なのである
その現場に立てば大きな空間があり様々なものを認識する、それを総合的に見るのが人間なのである、だからデジタル情報で人は誤った認識をして情報を曲解するのである
それはグローバル化して世界的にそうなったのである、本当に世界を理解することがニュースでもデジタル的に切り取った情報ではできないからである
そこに誤解が生まれそれで誤った情報に洗脳されているというのは確かなのである
それで世界の人たちがメデアによって操作されているというのもわかる
それは常に一部分でありデジタルなもの切り取ったものだからそうなるのである

現代はデジタル社会である、でも一部分を切り取った情報だとそこに真実が見えなくなるインタ−ネットがきりとった部分の集合であり全体が見えなくなる
一方でキーワードで検索するとすぐに目的のものが出てくるので便利なのである
インタ−ネットは長文が嫌われるのはデジタル情報として見るからである
2チャンネルとかでも極端に短いレスポンスでありそれはそれなりのコミ二ケーションなのだけど部分化した情報になる、川の一部分を切り取ったような情報になる
一方本は一つの川のようにな情報であり流れがありそこで主張するものがある
インタ−ネットはだから何かその人の主張があっても断片的に見られる
無数の断片化した情報になる、ただリンクしたり目的のものを探すのには便利なのである
ただプログはデジタルではない、アナログ的な要素がある、なぜならその人の主張を延々と書くことができるからである、するとこの人はこういうことを言いたいのだとわかる
前に書いたことでもその続きを延々と書くことができるからである
補足することがいくらでもできるからだ、本は一回出版したらそのままであり補足したり書き加えることができないからである、本は一冊一冊で完成しているのである
でも人間の知識には個々人でも完成することがないのである

とにかく人間の存在感がデジタルではなくなる、人間の存在はその土地と結びついているのである、今は土地と切り離されて人間を認識している  
何かが起きるというとき事件でもtake placeなのである、場所が深く関係しているのである、だから地域でも世界でも地理が深く関係している、地政学が大事になる
例えば中国でも介護問題が起きている、それで日本人の人が指導に行っていた、そこで老人ホームに働きに来ていたのは内モンゴルとかの人たちだったのである、内モンゴルとなると辺鄙な地方であり出稼ぎに来ていたのである
これも地理がわからないと理解しにくいのである、なぜ青森の老人ホームに南相馬市の人が引き取られたのか?
それも青森だと冬は仕事がないし女性でも介護での仕事で収入になるということでそうなった
介護関係はどこも人手不足だが青森だったらそういう仕事でも収入にしたいという人達がいるからそうなったのである

それで不思議なのは深野(ふこうの)の人が二三行自分のプログにコメントしたときこの人は深野に住んでいる、それも実名だったから確かに住んでいる実在の人だと認識したのである
深野はすぐ隣だからいつも行っている場所である
深野という土地にその人は実在して住んでいるということでその人のことはほとんどわからないにしてもその土地に根付いて実在しているということで存在感をもつ
それは空間的にそうであり時間的にもそうだったのである
時間的にその人はその土地に代々住んでいる人だからである
ここにずっと前らか住んでいてまたこれからも住んでいるということを時間的に継続したものとしてその存在がありそれでその人はデジタル空間で一時的なものではなく永続的に存在すると認識したのである、別にその人のことについては何も知らなくてもその土地に根付いた生活しているということで存在感を示したのである
万葉集でも地名が重要であり地名からその人なりを認識していた
その土地と離れて人でも認識できないということがあったからだ
そこに万葉集の原始性がありアイディンティティがあったからだ

人間の存在はなぜ現代では空虚になっているのか?何か数字の一つのようになっているのか?それは土地と結びつかないからではないか?
ただ人間は数値的存在となっているのは土地から切り離されてしまったからではないか?東京とか大都会になると高層ビルに住んでいたら土地など関係なくなるからである 、だから都会では人間の存在感はないが田舎だと存在感がある
特に農家には存在感を感じるのである、その土地に長く根を下ろして生活してきたという感じになるからである
ただ都会だけではない、何かその人が田舎に住んでいても地方に住んでいても実在感がないのはやはり遠くになるとその土地を認識できない、例えば福島県でも広いから会津になると山国であり別な世界になる
そうなるとその土地のことがイメージしにくくなる、深野というときすぐ近くでいつも行っている所だから認識したのである


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