冬の詩と漢詩の鑑賞
(現代文明は自然と調和しないから醜い)
冬の林の小鳥
かそけくも疎林の中を
枝移り軽やかに飛ぶ
美しき羽根を見せつつ
その声の冬の林にひびき
汚点も残さず消える
無駄なきシンプルな自然の姿
優雅に現れて林に消える
後に残された寂寥とした枯木林
そはまたゆくりなく現れて消える
後腐れなく冬の簡素な林の中に
simple gentle elegance
そは一物も身につけず自然に融和する
疎林幽鳥
簡素無心
森閑美声
玄冬深々
古松(こしょう)般若(はんにゃを)談じ、幽鳥真如を弄ろうす。
古松 … 生えてから長い年月を経た松。
般若 … 真理を見抜く智慧。悟りの智慧。
古松談般若 … 大正蔵所収『人天眼目』では「古松搖般若」に作る。
幽鳥 … 山奥の深い所にすむ鳥。
真如 … 絶対不変の真理。仏性
冬樹一本
一本の木が立っている
何も身につけず
寒風にさらされて
その姿にうたれる
人間はいろいろ飾りすぎた
余計なものを作りすぎた
何も身につけず
一本芯の通った姿
その率直なるもの
その強さその堅さ
緊縮されたもの
無駄なく引き締まった姿
一本筋を通して天に伸びる
大地に強く根を張り
天に真っすぐに伸びる
そこに不純なものはない
自然に不純なものはない
the simplist tree
straight up in the clear sky
the keen one
the consistent stand point
the beauty with no waste
strength and strict
the extreme purified form
the strongly rooted earth
この漢詩と私の詩は共通している、 「門開孤樹直」とは冬樹一本に通じる、ただ漢詩ではその樹の内面性を追求していない
漢詩にたらないものが自然の事物の内面性の追求である、それはヨ−ロッパの詩ではリルケなど事物の内面性を追求した
ただ詩には世界でも共通したものがあるから理解できる、言葉の相違があってもやはり詩でも科学でも共通したものとして人間に理解できる
現代はグロ−バル化しているから芸術でも学問でも科学でも技術でもグロ−バル化する、それは別に悪いことではない
芸術などは学問でもグロ−バル化しても世界に被害を与えないのである
被害を与えるのは経済のグロ−バル化なのである、世界で極端な貧富の差があり為替の差がありそれが歪みをもたらしているのだ
自然をどうとらえるのか?前回にも書いた庭の石でもそうである、ここには無駄がない、その無駄のなさが心打つのである
その反面として人間はあまりにも飾りすぎ無駄が多すぎるのである、その証拠が膨大なゴミを出すことなのである
ゴミの山になる、自然には無駄なものが一切ないのである
自然に完全に融合して無駄がないのである
冬日さし組まれる石に無駄のなし
simple building stones no waste
with wintry sunny light
この石の庭作りは禅に通じている、石と砂しかない庭はシンプルであり清浄の極みになっている、そして禅僧の務めはただ日々庭を清めることなのである、つまり無駄なことをしないことが禅宗の極意なのである
そして仏像などの偶像を拝まない、装飾を華美にしない、単純にして明快にする
それはイスラム教の一神教ににているのだ、キリスト教装飾性があるからだ、黄金にでも飾られるからである
そこに仏教にもいろいろあるが禅宗にひかれるのである、雲水とかでもそうである
つまり文明はあまりにも装飾が過多になり無駄が多すぎるのである、膨大な無駄なものに浪費されているのである
だから労働すら膨大な過剰になり無駄が多いのである、労働過剰になりかえって自然は破壊されたのである
それは老子が2000年前に警告していたことでありもう頂点に達して限界になっている
ものがありすぎるともう人間はそれを物でも道具でも情報でも何でも処理できなくなる
それで断捨離が流行になるのもわかる、私自身も毎日買い物に追われる、何でこんなに買うものがあるのかと思う
毎日が買う生活なのである、料理もほとんど買うものでまかなっている
するとやはり金はかかる、でも手間が省かれれるから他のことをなんとかしている、プログでも書いているのである
家事は全部自分一人でしているからである
人間は今生活そのものを見直す時代になった、高度成長時代からバブル崩壊と物質の追求だった、これからは精神の追及なのである
原発事故もそうした現代のあくなく欲、物質追求の警告となったのである
これまで何度も書いてきたようにこの辺の人を見ても金、金、金しかない、金にとりつかれている
借金して家を建てる人も普通に多い、そして高価なマイカーに乗りたいとなる、さらに事業した人は自分を成功者と認めさせるために事業に失敗しても借金して自分は成功しているみせて借金を要求してくるのも怖い、それだけ欲望がむきだしになり制御がなくなっているのである、そういうふうに限りなく欲望追及てしてゆくと他人から奪ってでも欲望をみたそうとするし殺ししてまでも欲望をみたそうとする、そういう被害にあったからもう現代文明の人間は野獣と化しているのだ
日本人は礼節あって どうだこうだ礼賛してももうそれはない、ただ金を求めて他者を蹴落としてでもとにかく自分の欲望をみたすことしかない、ブラックになるともう他者はその欲望を満たす道具でしかない、人間とは見ていないのである
それは大会社でも銀行でもそうなっているのだ、医者でも患者はいらない薬でも飲ませるとかどこでもそうなのである
金のためにはそうして過剰になり無駄が多すぎるのである
そういうお前も金は欲しいだろうと言われればそうである、でも金を何に使うか問題なのである
私の場合今は自分だけに使っていない、金を与えている、別にそれほど金がなくても与えているのである
とにかくマイホーム、マイカーしかない、マイビレッジ、マイタウン、マイシティはない
ただ自分のマイホームとマイカーしかないのである
だから原発避難区域でマイカーで故郷を出てマイホームをいち早く外に補償金で建てたのである
つまりマイカーは外に出る道具でありマイホームは仮の住まいにすぎないものともなっていたのである、だからマイビレッジでありマイタウンであれマイシティなどの復興とか関係なくなっていた、なぜなら実際に復興に尽力したのは外部の人たちだったからである
これも現代文明の矛盾がここには極端に露骨に現れたのである
このことを批判したらきりがなくなる
だからとにかく現代の文明を見直す作業しなければもうもたない限界にきているのだ
それはあらゆるところでそうなっている、パンが贅沢だなどとは言わない
ただ欲望が限度を越えて増大してゆく、それはもう限界なのである
そして文明人は醜いのは装飾過剰となり無駄なものが多すぎるからなのだ
自然のものは鳥でもなんでもシンプルであり無駄なものがないからなのである
そこに美があり自然と融合したとき調和したときこそこの世に美はある
都会には自然がないから醜いものがそこにむきだしになっているのだ
それでヘシオドスの人間の暮らしを隠すことが自然と調和することだったのである
【評論鑑賞(本サイトリンク)の最新記事】
- 金閣寺と平泉の金色堂(光堂)の相違の評論..
- 感銘した漢詩ー天華が入っていた (..
- 俳句の英訳の試み (外国語でもその言葉..
- 菜の花の俳句(外国でも菜の花が咲いていた..
- 神の園の鷺(詩) (人間はなぜ自然..
- 心(こころ)の詩 (心はここのこと..
- 平家伝説殺人事件ー故郷とは何かを問う ..
- 老人は記憶に生きる(記憶の宮殿)
- 先人の知的遺産を活かす (古典にな..
- 死者は生きた地に場にいる (死者とともに..
- キリコの絵と万葉集の比較 (場所の..
- 小さな畑に何のために投資するのか? ..
- 場所の現象学を読む(場を無視した工業化情..
- 代悲白頭翁(劉希夷を読むーその激しい変化..
- アメリカの国の成り立ちをホイットマンから..
- 現代の旅では風景も記憶に残らない ..
- 河の俳句から歴史をたどる (淀川か..
- 芭蕉と蕪村の五月雨の俳句の鑑賞
- 死者は面影となり生きる(古典の短歌を読む..
- メールで質問がありました (高村光..