2019年01月23日

元トラック運転手が言う (車を運転する人は運転できない自転車の人を見下している)


元トラック運転手が言う

(車を運転する人は運転できない自転車の人を見下している)

その人は大型トラックの運転手だった、そういう人と良く会う
考えてみるとそういう人は仕事で東京を行ったり来たりしている
仕事の場が地元というわけではない、だから意外と地元で仕事したという感じがないのかもしれない、広域社会になるとそうなる人が多いのである
地元だけで生活している人は意外と今は少ないのである
第一農業とかに従事している人は一割にも満たないからである

その人は車を持っている人は車のない自転車を利用している人を見下しているという
運転もできない、免許もとれない劣った人だとしている
確かに身分証明書だって免許証が一番認められている
だいたい車が運転できないと仕事にもつけない、役所でも免許がないと就職できなとかなっている、そういう時代である

そして奇妙なことはなぜその人とは話すようになったのか?
それはその人が車に乗れなくなって自転車に乗るようになったからである
その人は足を悪くしてアクセルを踏み間違えるとか車を運転できなくなったからである
それで自転車に乗っているから自転車の話になって話せるとなったのである
それは前からであった、自転車に乗っている人とは話しが合うのである
自転車を通じて話せるとなるからだ、車だとそうはいかないのである
だから良く自転車に乗っている人とは私は話すのである

最近同級生が脳梗塞になりそれで自転車で散歩するので土手で出会い話すようになった
その人は車は運転できる、川子のパークゴルフ場に今日いたので話した
あそこまでは車で行ったのだろう、道具もあるからそうだろう
私の新しい自転車のことで話したのである
私は良くゴルフするわけではないがあそこは見晴らしがいいので自転車でたちよるのである、自転車で一周するのである

ともかく車に乗っている人が車に乗れない人を見下しているというのはわかる
何か欠陥があって車に乗れないのだろうとなるからだ
でもそれではスマホとかパソンコでインタ−ネットができない人を見下すということもある
60以上になるとインタ−ネットできない知らない人も多いからである
そうするとそういう人は若い人に見下されるともなる
でも車だけは老人でも多数が乗っているから違うものとなる
第一車が運転できないと結婚できないとか男としての立場がないともなる
女性すらみんな運転できるからである、女性に運転してもらとなると男の価値でも下がるとなる、男性が運転して女性をエスコートする、守るということで男としてのプライドが保てるとなるからだ

人間は歴史的に見てもそういうことは常にあったのである
何か道具とかをもつものと技術をもつものと持たないもので差別されるとか常にあった
それは国でもそうだろう、なぜ中国はあんなに技術的にも最低の国だったのにアメリカで通信分野で同等になり追い越すとまでなると中国人は優れている凄いなと見るからだ
技術の優劣によって人間の優劣も国の優劣も決まるとなるからだ

ただ老人になり車も乗れなくなったりするとどうなるのか?
その人はもう人間失格だとすら価値ないものだとすらなる
もし車が乗ることに価値あるとしたらそれがなくなればそうなりやすい
現実にそうなっている人が足を悪くして車に乗れなく自転車に乗るようになった人なのである
自分自身にしてもパソコンができるからプログなどで毎日発信できる
パソコンができないと何もできないとまでなる
第一いちいち雑誌のように出すとなると大変な作業になるからだ
もうそれは一個人で不可能なのである
インタ−ネットだったら気軽に無料でできるからしているのである

でも奇妙なのは別に例えば絵画でも文章でも詩でも作品でもインタ−ネットでなくてもパソコンを通じなくても発表できる、文章だったら本にしてでもできる
本当は絵画でも文でも作品でもその内容が問題なのである
内容によって優劣が決まるのでありパソコンでも道具にすぎないのである
ところが人間は道具によって優劣が決まってしまう
それは戦争でもそうである、核兵器をもつ国が強いとか優秀だとかなる

ただ車を持っている人が運転できる人が運転できない自転車に乗る人を一段低い劣ったものとして見ているというのも変だと思う
人間の優劣がそれで決められるのか?人間の優劣は道具をもつものとの差だったのか?
それは時代でも石器時代から鉄の時代になったとき歴史が大きく変わったように人間の歴史そのものがそうだったともなる
鉄の時代になったとき石器しか使えない人は原始人であり野蛮人にもなったからである
でも何が野蛮なのか文明人なのかもわからない

なぜならその道具をもって機械でもって大量殺戮してきた文明人が優秀なのかとなるからだ、それこそ野蛮人だったともなるからだ
だから道具とか機械とか知能でもAIとか進歩するけどそれを利用している人が優秀なのかとなるとわからない
つまり殺人兵器にも使えるし実際に使っている、人間はいくら技術が進歩してもかえって大量殺戮時代になったのが現代だったのである

道具とか機械でも一歩使用を誤ると取り返しのつかないことになる
この辺の原発事故がそうだった、自然環境が汚染されてとりかえしのつかない状態になった、一歩誤れば技術の進歩でも大きな災いをもたらすのである
今日も現実に交通事故の負傷者がドクターヘリで運ばれた
交通事故は毎日のように起きている、そしてドクターヘリなら車より超高速の時速200キロで福島医大まで運ばれたからこれも技術の進歩が成した
でも交通事故は本当に毎日のように起きている
車があるために事故は絶対に減らせないのである
ただ将来自動運転になれば減らせるのか?そうなったと違った局面を迎えるのか?

ともかく高齢化社会だなとつくづくち感じる、そういう人たちが増える時やはり交通の問題が起きてくる、車だけには頼れない、車が乗れなくなると弱者化されるからだ
すると鉄道とか自転車が見直されるのである
そもそもE-BIKEはヨ−ロッパで老人が体力がなくなっても自転車で楽しめる利用できるものとして作られたことでもわかる
ヨ−ロッパとかアメリカでは速度制限がないから30キロ以上で走ってもいいしバイクとして使っていたからである
つまり高齢化社会というのはそういう側面もあり社会自体を変えるものにもなる
それは必ずしも悪いものとはならない、今まで見逃されていたものが再び別な形で復活するかもしれない、それが鉄道でも自転車でも見直す契機になり車だけではないものの利用によって何か人間的なものを取り戻すということもありうると思ったのである

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/185428837
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック